馬鹿琴の旅立ち

独り言を綴っています。主にお城や史跡がメイン。時にはお相手して下さい。

金ヶ崎城と天筒山城に登ってきました

2025年12月6日金ヶ崎城と天筒山城(てづつやまじょう)に登ってきました。

こんなトコです。2回目の登城。

金ヶ崎城の隣に天筒山城がありますので、併せて登城します。

丹後若狭シリーズはここら辺で打ち止めですかね、そろそろ雪将軍が迫ってきていますので。

まあ敦賀は厳密には越前なのでしょうが。

JR敦賀駅。今日は遅めの11時15分過ぎ。

思ったより寒くありません(´・ω・`)

観光周遊バスに乗りたいのですが、次のバスが11時40分ですので、昼ご飯をいただきましょう。

JR敦賀駅の駅隣接のオルパーク内にある気比そばあまのさんにしました。

卵天ぷらそば+おにぎり(おかか)で640円。

私のお財布にも優しいお値段でウキウキです。

美味しくいただいた後、外に出るともう35分、急いでバス停に向かいます。

ぐるっと敦賀周遊バスお値段200円に乗ります。

松本零士さんのイラストがラッピングされていますよ^^

著作権で揉めた宇宙戦艦ヤマト+銀河鉄道999。

10分も掛からずに目指す金崎宮へ。

バス停も松本零士さん。

今日目指す金ヶ崎城と天筒山城の説明版です。

金ヶ崎城は南北朝の戦いと戦国期の戦いの2つで有名です。

1度目の南北朝の戦いでは、新田義貞が後醍醐帝の2人の皇子を連れて入城します。

もうその頃には楠木正成も戦死しており、全般的に宮方は劣勢でした。北陸に行った新田軍も苦戦し、何度か足利方に攻められている間に兵糧も尽き、とうとう金ヶ崎城は落城するのです。

また戦国期においては、織田徳川連合軍が朝倉を攻めるため、敦賀から攻め入りますが、妹夫である浅井の裏切りが発覚し、朝倉と浅井の挟み撃ちに遭うのを恐れたため、信長は越前から撤退します。

その時、秀吉がここに残って、追撃してくる朝倉勢を迎撃するために籠城するのです。

一緒に徳川家康も残ったとか、柴田も明智も兵士を融通したとか何とか。

これだけ観光できる場所があるのです(´・ω・`)

私が登る金ヶ崎城と天筒山城の地図です。

金ヶ崎の退き口を宣伝しています。

どうする家康ではなく、麒麟が来るの宣伝かよ!!(笑)

まずは金崎宮へ向かいますが、いきなりの石段群。

こちらは来年の豊臣兄弟の宣伝!(笑)

弟の秀長はこの時、朝倉攻めに参加していたのかな?してたんでしょうね。

大きな鳥居の下を通ります。

こちらのお宮は後醍醐帝の2人の皇子がご祭神です。

第一皇子の尊良親王は金ヶ崎で自刃、恒良親王は足利方に捕らわれてしまい、都に送らてしまいます。ただし翌年に急死してしまいます。

ちなみに第一皇子の尊良親王は、有名(?)な護良親王より年上なんですって。

後醍醐の帝は本当に子だくさん。

柄杓なしのお手水でした。

落葉がハート型になってますよ( ゚Д゚)

あれ、悲劇の尊良親王を祀っているのに、何だかピンク色のお社ですね~

恋の宮とか書いてはる(笑)

 

家に帰って調べたら、分かりました。

尊良親王はまだ大覚寺と持明院の両統が並立していたころ、皇太子を巡る争いに負けてしまい、傷心し引き篭もりがちになります。

何でも源氏物語宇治十帖の橋姫を読みふけり、絵の中に出てくる女性の絵に恋焦がれてしまうのです。

いわゆる二次元コンプレックスの皇子様だったのですね(笑)

その絵にそっくりだったのが御匣殿(みくしげどの)でして、尊良親王は言い寄ります。

ところが御匣殿はつれない態度を取ります。婚約者がいたからなのですが、たくさんの手紙を送る様になると、御匣殿も次第に心を開きます。

一方で、中国は唐の時代の政治を学んでいた尊良親王は、すでに婚約者がいる女性に迫る行為は恥ずべきことと学び、恋文を出すのをやめ、また思い悩む様になります。

御匣殿の婚約者は皇子の苦悩を知り、身を引いてしまいました(!)

そして晴れて尊良親王と御匣殿は結ばれて、仲睦まじい夫婦になるのですが……後醍醐帝の我がままで日本中が大混乱。

笠置山に父と籠ったり、その後土佐に流されてしまった親王を追い掛ける御匣殿ですが、金ヶ崎で亡くなった親王のことを嘆き悲しんで、後を追う様に亡くなるんだそうです。

それだけ仲の良い夫婦と思われているため、お宮で祀っているのでしょう。

 

ところで、実際には御匣殿は最初の鎌倉幕府との戦い前に亡くなっているそうなので、この話の後半はフィクションなんですって( ;∀;)

金崎宮の隣から登城できます。

緩やかな登り口。

敦賀港が見えました。風はなく、寒くはありませんよ。

あ!尊良親王の……お墓?

ここで埋葬されたのかもしれないとのことです、南無。

なるほど幾つか遺物が見つかったそうです。

太平記では金ヶ崎城落城の時、落ち延びることを勧めた新田義貞の息子の義顕に対して、

「後醍醐帝からそなたを股肱の臣とする様に言われている。そなたを失くして、どうして私だけが生きることが出来るものか」

ここで新田義顕は号泣、しかし皇子はこう言うのです。

「私は武家の作法に疎いので、自害の仕方が分からない。どの様にするのかな」

新田義顕は、この様にするのです、と作法を見せて自害。

尊良親王はそれに倣って見事に自害し、新田義顕の身体の上に折り重なったとか。

尊良親王は30才、新田義顕は20才……と言われておりますです。

 

南朝の話は悲しいものばかりです。

それにはめげずに、気を取り直して進みましょう。

月見御殿ですって。

金ヶ崎古戦場の石碑。碑文は全く読めませんでした。

ここには古墳まであるのでした。

しかしまったく古墳には見えず、単なる土塁にしか見えないのです(笑)

ここが御殿。やっぱり痕跡が分かりません。

ふーむ。

眺めの良い展望台感。

青い海と船のドックかしら?新日本海フェリーさんみたいです。

先に進みますよ。

お城の遺跡は、この様な大きな堀切くらいしか気づけませんでしたねえ。

はえー三の木戸。

焼き米出土ですって。

お地蔵さんが見守っているのです。

二の木戸。激戦だったんでしょうね。

く、熊~🐻

早く冬眠して下さい。

また堀切です、登れませんね。

朝倉氏も使用した一の木戸。

この辺、高低がかなりきつかったりしますよ。

この階段も結構厳しいです。

そろそろ天筒山城に移りかけています。

見事なV字谷ですが、ここを歩くのですよ。

休み休み登らないと厳しいのです。

休んでいると、上から仲の良さそうなカップルが登場です(笑)

ここ、ここが一番苦しみました( ;∀;)

ヤマレコによるとアレが天筒山城の頂上ですよ。

広場になっています。あの上に登れそうですので、行ってみますか。

三角点もありましたよ。

螺旋状に回る回る、眼も回りそうになって登ります。

東北方面、越前側の山々。

この間の寒波でいただきが白くなっています。

南西の敦賀港側です。

ここは船の国際便が通行できる様になっているみたいですよ。

真ん中の現在地におります。

後はもう降りる一方です。足が何故か軽くなりました(*´▽`*)

私見ではここが一番紅葉していましたかねえ。

あっという間に降りてきてしまいました。

天筒山の展望台から20分弱です。

金崎宮からは1時間20分でクリアできた感じ。

西から東に横断しました。

ヤマレコデータ。

あらわずか3キロ、1時間17分の旅でした。

まだ13時20分ですので、他にも足を伸ばしてみましょう。

でわ。