馬鹿琴の旅立ち

独り言を綴っています。主にお城や史跡がメイン。時にはお相手して下さい。

田辺城に登ってきました

2025年11月29日田辺城に登ってきました。

建部山城に登って食事をしてきた後のお話です。

田辺城はこんなトコにあります。

JR西舞鶴駅にほど近です。

 

田辺城は一色氏を滅ぼして丹後を治めた細川幽斉こと藤孝が、初め宮津に城を築きましたが、新しく田辺にお城を築いたとされています。

本能の変においては、細川幽斉と子の忠興は明智光秀の協力要請を拒み、謹慎します。

また関ケ原においては、忠興は家康の上杉征伐に従って関東方面へ出張中、隠居中の幽斉は田辺城にいましたが、石田三成西軍のうち小野木重勝が15,000人もの大軍を率いて、城を包囲します。1600年7月のことです。

田辺城の軍勢はわずか500名(!)で、風前の灯とも思われましたが、城方は踏ん張って2か月も持ちこたえました。

その後細川幽斉の命を惜しみ、戦死を恐れた(!?)八条宮智仁親王(後陽成帝の弟君)が使者を遣わし、細川幽斉に降伏を促しますが、これを拒否。

細川幽斉は朝廷に遺書を託して、また勝つ見込みのない籠城戦を続けますが、ここでまた朝廷方が公家を数人使者として送り込み、講和を促します。

さすがに勅命を拒めず、細川幽斉はこれに従い、丹波亀山城に退去します。

丹波亀山城に登った話はこちら。

田辺城開城は9月13日、小野木重勝の西軍は何とか勝つことが出来ましたが、肝心の岐阜関ケ原では戦いは9月15日に決着が着いており、小野木たちは間に合うことが出来なかった、ということになります。

細川幽斉は15,000人もの大軍を引きつけて、戦功に準ずる手柄を立て、息子忠興も関ケ原本番で活躍し、めでたく豊前小倉40万石(後に肥後熊本54万石)の大大名になります。

 

ここまでは良く知られた話ですが、気になりませんか?

戦争による武将の戦死は良くある話、なぜ朝廷は細川幽斉の助命に限ってこだわり、数度も使者を送ってその命を救おうとしたのでしょうか。

それは古今伝授のため、と言われております。

 

でも善は急げ、まずはお城に行きましょうか。

マンホールは、舞う鶴と田辺城でした。良い感じです。

自転車で走っていると……

田辺城の門ですよ、しかも舞鶴警察署の真正面なのです。

自転車に乗りながら撮影すると、それこそ逮捕されそうなので(笑)、ちゃんと降りてから撮影するように心掛けました。

門の左側(北側)には、櫓まで設置してありました。

1940年昭和15年という比較的昔に復興された二層櫓。

白亜の壁が美しく眩しくさえあります。

舞鶴公園と銘打ってあります。門へ向かいましょう。

立派な城門ですが、右下に誰かいますねえ。

ゆ、ゆうさいくん?(笑)

ゆうさいさんの自動販売機もあるのです。

城門、美しく整えられております。

ほとんど公園で城門と二階櫓だけなのでした。

天守台跡にまずは行ってみましょう。

石が整列されていますが、これは天守台ではありません。

これが天守台ですね。

城門に近すぎる気がしますが、往年の田辺城はもっと大きくて広かったのでしょう。

天守台に登れました。

上には何もなく桜の木があるだけ。

二層櫓が良く見えました。

降りて櫓の外を歩いてみました。

ここら辺は良く整備されています。昔の積みではないみたいですが。

丁寧に積んだんですねえ、お疲れ様です。

また二層櫓のところまで戻ると井戸を発見。

その脇に階段があって登れるみたいです。アホなので高いところが好きですから、行ってみますね(笑)

あ、二層櫓に行けるんですね、結局。

これだけ見ると、お城の他には人工物はなく、時代劇のシーンで使えそうですよ。

昭和15年という遥か昔に再興された櫓内に入ってみます。

本能寺の変における明智光秀の言い分の手紙です。

内容は……

一。

親子で髪切ったらしいね、それは残念。

聞いた時には腹立てて怒ったけど、今となれば仕方ないや。

ことここに及んだからには、誰か強い武将を派遣して助力してよ。

一。

領地については摂津の国にしようと思って、君たちの上洛を待っていたんだよ。

でも若狭、但馬が良いならそれでも良いよ。

一。

今回の本能寺の変はね、君の息子の忠興君を取り立ててあげようと思ったからなんだよ。

他に付け加えることはないです。

50日か100日したら、近々の国を征服するから、その後は私の長男の十五郎(明智光慶)、そして娘婿である与一郎君(忠興)に任せようと思う。私は引退しよう。

他には何も考えてないよ。

詳細は使者の口から直接聞いてね。

以上。

6月9日 光秀。

 

本能寺の変から1週間後の手紙です。

光秀は協力もせず、信長の死を悼む細川親子に腹を立てているのですね。それが面白い。

それどころか本人じゃなくて良いから、援軍を率いて武将の派遣を要望しています。

領地はどこでも上げるから、助けて~感が滲み出ています。

更に変の原因として、忠興のために、と書いています!

これには幽斉さん、困ったかも。光秀が負けると踏んでいたら、意地でも援軍は遅れないでしょう。

忠興と幼名の与一郎が混在しているのが、光秀の焦りとか感じちゃいました。

出た、古今伝授!!

待って下さい、この掛け軸内の人物、ひょっとして歌聖の柿本人麻呂さんでは?

八条宮智仁親王が1回目に使者を遣わした時に、降伏案を拒否して、しかし宮宛に伝授の手紙を送り、伝授完了の証明書を添付したのですかね。

でも口伝の部分があるから、完了したとは言えない訳です(笑)

あ、それで、2回目の朝廷からの使者派遣になったのかな?

何かねえ、これには裏があるのではないか、と思うんですよ。

 

そもそも古今伝授って何だか分かりませんよね。

知ってる人はともかく、私には何が何だか。

Wikiで調べると……

 

勅撰和歌集である古今和歌集の解釈を、秘伝として師から弟子に伝えたものである。

古今和歌集の解釈は歌学を家職とする公家の二条家の秘事として代々相承されるようになった。

古今伝授は、藤原俊成・定家の嫡系子孫である御子左流二条家(二条派)に伝えられたものである。

しかし二条為衡の死によって二条家が断絶すると、二条家の教えを受けた者たち(二条派)によってこれらの解釈が受け継がれるようになった。

二条家の秘伝は二条為世の弟子の頓阿によって受け継がれ、その後経賢、尭尋、尭孝と続いた。

尭孝は東常縁に秘伝をことごとく教授し、常縁は室町時代中期における和歌の権威となった。常縁は足利義尚や近衛政家、三条公敦などに古今集の伝授を行った。

古今和歌集は上流階級の教養である和歌の中心を成していたが、注釈無しでその内容を正確に理解することは困難であった。

1471年文明三年、常縁は美濃国妙見宮において、連歌師宗祇に古今集の伝授を行った。

宗祇は三条西実隆と肖柏に伝授を行い、肖柏が林宗二に伝えたことによって、古今伝授の系統は三つに分かれることになった。

三条西家に伝えられたものは後に「御所伝授」、肖柏が堺の町人に伝えた系譜は「堺伝授」、林宗二の系統は「奈良伝授」と呼ばれている。

 

長いですけどもう少し続きます。ここからが大事(笑)

 

三条西家は代々一家で相伝していたが、三条西実枝はその子がまだ幼かったため、後に子孫に伝授を行うという約束で細川幽斎に伝授を行った。

ところが1600年慶長5年、幽斎の居城田辺城は石田三成方の小野木重次らに包囲される。幽斎が古今伝授を行わないうちに死亡して、古今伝授が絶えることを恐れた朝廷は、勅使を派遣し幽斎の身柄を保護して開城させた。

幽斎は八条宮智仁親王、三条西実条、烏丸光広らに伝授を行い、1625年(寛永2年)、後水尾上皇は八条宮から伝受をうけ、以降この系統は御所伝授と呼ばれる。

 

とあります。

まず三条西実枝の子が幼いために、幽斎に仮に伝授して、次代の三条西家に伝えさせようとするのですよ。

三条西実枝さんは1579年天正7年68才で死去、その時息子の公国さんは、え、26才ですよ。

これって幼いのかな?充分大人でしょう。

確かに後に36才で亡くなるのですが、病弱気味だったんでしょうか。

 

三条西実枝さんは、やむなく弟子の細川藤孝に初学一葉(和歌の歌論書)を与え、「たとえ細川家の嫡男の一人といえども、絶対に他人には伝授しないこと、三条西家に相伝が断絶するようなことがあれば、責任をもって伝え返すこと」等を誓わせ、古今伝授を幽斎に行った。

後にこれは現実のものとなり、公国が早世すると、幽斎は実枝の孫の実条に古今伝授を伝えた。実条はこの時25才。

 

何か万々歳となっていますが、疑問が浮かぶんですよ。

①三条西家は、幽斎以外に伝えなかったのか。

弟子の幽斎よりも三条西家の親戚筋に伝えて、次代の三条西家嫡流(実条)に継承すれば良かったのに。何なら、公家間で養子を迎えれば良いのです。

そんな風に思ってしまいました。

②幽斎は師匠実枝さんとの約束を破った?

絶対に他人には伝授しないこと、とか言いながら、宮家の八条宮智仁親王、公家の烏丸光広に伝えてます(笑)

まあこれは朝廷たっての希望もあり、致し方ないのかな。

③本当に朝廷から講和の使者が出たのか

これが一番言いたいのです(笑)

 

籠城戦で500対15,000も戦力の差があるから、勝ち目はなさそうやなあ。

このまま城に籠っていても、内府(徳川家康)と治部少(石田三成)の決着が着かないと、どうにもならんし。

せや、儂には古今伝授の資格があるやないか、まだ三条西家にも誰にも伝えていないのや!!

これを主上(帝)に密かに申し出て、勅命で講和させればええんやないの!!

 

ピカーンと閃いた幽斎は、忍びの者を呼んで、遥か遠くの今日の京まで行かせるのです。

三条西家で良いでしょう。幽斎の知らせを聞いた三条西家は慌てふためき、御所にご注進。

まずは天皇陛下弟君の八条宮から降伏の使者が送られますが、幽斎は、

「1回で納得して降伏してもうたら、徳川内府(家康)に疑われるやないかい。格付け上げにもお断りしとこ」

とか考えて(笑)、拒否しながらも、一応親王に免状を送り、2回目の使者を早々によろしく、できれば勅命欲しいんやけど(上目遣いで)と伝えるのです。

かくして朝廷は再度の使者を送り、ここに講和が成り、田辺城は開城、細川幽斉は古今伝授を無事に済ます、そして歌道にも箔が着く、なんてことを妄想してしまいました。

 

多分違ってるでしょう、私ごときが思いつくのですから。

 

櫓二階。普通の眺めでした。

細川幽斉と麝香さんご夫婦。仲良くて私も嬉しい。

櫓を出て城門2階の資料館に向かいます。

二層櫓が綺麗です。

こちらが資料館。

スタッフがあたふたしています。何だか団体客が来るそうですよ(´・ω・`)

ゆっくり見れると思ったんですが。

今のうちに先に入場して、御城印入手です。入場料は200円。

田辺城古図。

この図の右側が方角が西となり、城門があるところになります。

ちょっと陸地から近いかな?

 

ガイドさんから話し掛けられました。

「どこからです?」

「大阪です、先ほど建部山城登って、こちらに来ました」

なんて話をしていると、ドアが開いてやってきました、団体客!!

ざっと30人くらい(笑)

 

私は逃げる様にその場を去り、他の展示を見に行きます。

もうひとつの関ケ原、田辺城。

まっすぐ前を向く幽斎さん、お疲れ様でした。

ジオラマを見ながら田辺城を眺めます。

意外と当時も海が近いのですね。

How To 古今伝授。

柿本人麻呂の像を飾ると書いてますね……ああああああ!!

相伝者(生徒)の年齢が30才以上と書いてます!!

受ける資格は30才以上でないとNGなのか……そうか、三条西公国さんは26才だったからダメだったのですね。

26才だと「幼い」のかぁ、それは厳しい世界、厳しいルールなんですね。

もっとも講和後、伝承者の三条西実条さんは25才、八条宮智仁親王は21才、烏丸光広も21才なんですけどねえ(しつこい)

ちなみに幽斎は39才で古今伝授を受けていました。

 

32日以上の講義期間が必要、というのも手強いルール。

田辺城開城以降、丹波亀山城で行ったのかしら。

この時、幽斎は、

「何や30才以上やでと言うたのに、若造ばかり寄越しおって。八条の宮さんは帝の御弟君やし、師匠の孫である実条はんも宗家やからしゃあないわ。非常時やから構わんやろ。烏丸はんとかしょうもない若造を連れてくるとは思わんかったけれど、寄せ手の小野木はんとかは古今伝授の決まりごととか知らんと違うか、このまま押し切ったろ。やれやれ命拾いしたわ」

とか思ったかもしれません(笑)

香川元太郎さんの描く田辺城籠城戦。
攻めてきた西軍勢の中には、幽斎の歌道の弟子もいたそうで、なかなか戦意も上がらなかったとか何とか。

ガイドさんの説明が一旦終わった隙を見て、場外へ無事脱出。

堀の跡でしょうか。

一応建前上の古今伝授の説明(笑)

いえ、これが本当です、多少の疑問がありますが(しつこい)

いにしへも 今も変わらぬ 世の中に こころの種を残す 言の葉

この階段を登ったところで、親王の使いに秘伝書を渡したらしいです。1回目の話ね。

囲まれています。

石碑、読めませんよぉぉぉぉ

城門の横の石垣。整然と積まれていました。

さてそろそろ東舞鶴駅に向かいましょう。

丹後鉄道さん100周年ですって、おめでとうございます。

クロミちゃんを丹後七姫になぞらえてキャンペーンしています。

誰だよ、七姫って思いましたので、調べました。

丹後七姫は、京都府北部、丹後地方の伝承に登場する代表的な7人の姫君の総称。

乙姫(伊根町)浦島太郎の乙姫。

羽衣天女(京丹後市):羽衣の天女です。静岡の三保の松原と揉めそうです(笑)

静御前(同):源義経の愛妾。丹後出身なんですね。

細川ガラシャ(同):彼女は細川忠興に嫁いで、丹後にお嫁に行った、です。

小野小町(同):この人は伝説が多過ぎて(笑)。晩年深草少将の百夜通いから逃げるためにここまで来たとか、何とか。

間人皇后(同):聖徳太子のご生母。

安寿姫(舞鶴市・宮津市):例の安寿と厨子王の安寿ちゃん。

以上の7姫をさし、それぞれに縁の場所や史跡が伝えられる。

安寿姫のかわりに川上摩須郎女(京丹後市)を含めると、「京丹後七姫」となるんですって。

川上摩須朗女(河上之麻須郎女 ):かわかみますのいらつめ。垂仁天皇に5人の娘を献上した丹波の国主丹波道主命の妻

京丹後鉄道が入線です。

これには乗らず、15分後にやって来る高速バスに乗って関西方面に向かいます。

でわ。