人は皆それぞれに目指していく道は、違うものである。
こんな時、板扱均太、牛根孟六、塩浜の鹹四郎は、前夜の遺恨を晴らそうと、古那屋の門に忍び込んで来た。三人は戸に耳を近づけて、或いは扉の節穴から覗いてみれば、蝋燭が灯されていて、声さえ聞こえたのである。
「まだ時期に早い」
と一旦引き下がって囁き合っていると、背後からこちらにやって来る者がいることに気づいた。
「見つかってしまうな」
と三人は一斉に慌てふためき、庇の陰から裏門へ隠れた。
さて、山林房八は、母の妙真に送らせて女房の沼藺を出て行かせたが、向こうの回答の見通しが立たず、落ち着かないでいた。
また他に思うところもあって、小文吾に直接会って、昨晩の揉めごとの決着を着けようと思い、こんな夜更けにただ一人やって来たのだ。
静かに戸口に近づいて中の様子を窺うと、小文吾は沼藺と座っていて、嘆く声、諭す声、いろいろと物悲しく聞こえてきた。
「まずは様子を窺って、良く確かめた後に中に入ろう」
と思案しながら、門柱に手を掛けて、身体を傾けて盗み聞きをしようとした。
そんなこととは知らず、沼藺はようやく泣き止めて、
「思いも掛けず、この身に起きてしまった離縁騒動、父様がお帰りになられましたら、何と申し上げたら良いのやら。本当に情けないのは、女子の身でございます」
と、考えを巡らせながら、
「ねえ兄上。良いお知恵をお聞かせ下さい。くよくよ思い悩むより、大八を納戸に寝かせて、父様をお待ちしましょう、ああ、、胸が痛い」
と身を起こした。
小文吾は駄目だと立ちふさがり、
「おい、お沼藺はどこへ行くのだ」
言葉せわしく止めようとすると、妹は兄の顔を呆れて見て、
「何て意地悪な言い方でしょう。離縁されて帰って来ても、ここは親の家で私の実家、納戸に行くくらい何の罪もないでしょう」
しかし言い終わらないうちに、小文吾は首を振って、
「例え実家であっても、親が留守であれば、この兄の思う様にする。知らないのか、今宵は庚申守だぞ。庚申の日は夜通し寝ずに飲食や歓談をして過ごす慣習だ。だから私は祈願することがあって、心身を清めている。だから親類でも誰でも、家には入れない。まして奥へは誰も一足すら許さないぞ。言ってみれば関所の様なもの。その戸を開けて、私の祈願念願を空しくさせるつもりか」
と息巻いた。
その心の裏側には、ただ奥の座敷で病み伏せっている犬塚信乃の姿を見せまいという思いがあり、でたらめで言いくるめ様としているのだ。
しかし沼藺はまた涙ぐみ、
「それは嘘でございましょう。今夜は人目を忍んで、どなたか美しい女の人でも来ているのですか。他人には隠しても、この妹にはそんな必要はありません」
と恨み言を言って中に入ろうとすると、小文吾は眼を怒らせて、
「下品な物言いはやめなさい。庚申守の祈願の他には何もない。一旦閉めた、来客用の、言わば関所を疑われたからと言って、入ることを許すと思うのか。強引に奥の納戸へ行こうとするなら、私の物忌みを邪魔する、正に悪魔の所業と同じだ。そうであれば、ここにいることも許さん。可哀想だが親子ともども、軒下にでも行って夜を明かすが良い。私は真剣に言っているのだぞ」
罵りながら、妹を掴んで引っ張りながら、訳もなく出口に降ろしてやると、
「あっ」
と叫ぶ母の声に、驚いて眼を覚ました幼児も、一緒に泣き叫ぶ。
小文吾は無理もないと思うのだった。母子の姿を見れば、心が弱りそうになったが、そこをどうにか鬼にして、泣き声が奥に聞かせないとばかりに、潜り戸をはたと足で蹴り開いた。
母子を外に押し出そうとすると、外から手を伸ばして、沼藺の肩先を押し戻しながら、ひらりと中に入って来る者がいた。
小文吾が誰かと見つめると、
「房八ではないか」
「小文吾か」
「何を考えて真夜中に」
「聞かずとも知れたこと、喧嘩の続きだ、別に言うこともある。きれいさっぱり他人になって、潔く果たし合うために夜を越えて」
「それで来たのか」
「そうだ」
お互い短く、しかし油断をせず、返答をして、房八は潜り戸をしっかりと固く閉ざした。
その時小文吾は、元の場所に後退って、刀を一本を握りしめた。
間髪入れず、房八は長脇差しの刀身をぎらりと光り輝かせた。辺りも狭しと裾をまくり上げて、母屋の真ん中に進み出ると、小文吾の近くに寄って、膝を付き合うばかりにまで近づきにらんだ。
思い掛けずも沼藺は、夜更けにやって来た夫の剣幕と、それには兄もさすがに顔色を変えたことに、二人の意図が汲めなかった。彼女の胸は騒ぎ、荒磯に押し寄せる波よりも不安になり、ここは運命の危うい分かれ目だと思った。
しかし二人をなだめることもできず、ただ泣き、、そして泣きじゃくる大八を横に押し抱き、含ませた乳房もやせ細る無限の苦しみを感じていた。沼藺はよろよろと後退り、心もそぞろになすすべもなく、行燈を壁近くに押しやった。
ふと見た行燈の明かりは、心細く思われて、私もこの様に今にも消えてしまいそうだと嘆く他はなかった。
房八は妻を見ることもなく、腕を上げて大きな声を出した。
「小文吾、貴様も男なら、栞崎で踏まれたことを恥と思え、恥と。辱めても注意をしても、何をしても無駄な臆病者を相手にするのは大人気ないが、少し見たこと、そして聞いたことがある」
と意味ありげなことを言う。
「さて女房は返したけれど、妻の衣装や調度品を返さなくては、後日文句を言われかねん。奥歯にものの挟んだ言い方で、欲に転んだと他人に言われかねない。それらを返そうと持ってきたから、中身を改めて受け取るが良い」
小文吾はそれを遮って、
「何ごとかと思えば、沼藺の衣服を返そう、だと。人騒がせな、こんな夜更けに限ってすることか。先に義母上の妙真殿にもお答えしたが、我が父がまだ帰って来られないからお断りをしたのだ。曲げて妹をこの家に置いたのは、姑のお情けに免じてのことだ。ご返答は父が帰ってからのことと言ったのを、まだ聞いていないのか」
しかし途中で房八は嘲笑い、
「明日帰るのか、明後日帰ってくるのか、あるいは生涯帰ってこないかもしれないやら、様子がまったく分からない文五兵衛を待つとか、いつまでも待てるものかよ。俺も男だ。今日返そうと思って持ってきたものを、受け取れないからと言われて止められるものかよ。流行り模様の京鹿子、美濃の八丈、飾磨の褐(かち)など沼藺の着物の中に、お前が欲しがっているものがあったぞ。これに見覚えはないか」
と問い返しながら、取り出したのは血の着いた麻衣である。
「これはどうだ」
近づけてきたそれを見て、小文吾は驚き、
「まさしくそれは」
と伸ばした手を払って、房八は左手に持ち直した。
「さぞかし欲しいだろう、欲しいはずだ。これはな、昨夜、入江の葦の原でな」
房八の言葉に、小文吾は思わず前に進み出た。
「しかも宵闇迫る中、誰彼の区別もつかない中、背負って帰る一つの風呂敷包み。それを誰かが、誰とは知らず、後ろから引き止めたのを振り払ってやった。お互いに拳を繰り出すも、真っ暗な中、引き裂かれた風呂敷の裂け目から漏れて出てきたのがこの布切れか。そうとは知らず、相手を退けたつもりで、帰宅はしたものの、いろいろなことが起きたので、心も落ち着かないまま今ここにいる。この布切れを見て、胸が潰れる思いがしたわ」
小文吾は低い声で言った。
「さてはあの時の曲者は房八、貴様だったのか。今こそ読めたぞ、離縁状の件」
「離縁状の三行半も仏にはお見通しだ、黄昏時に思いも掛けず、道で拾って、母に渡した犬塚信乃の人相書き。それですべてが分かったのだ。女房と別れたのは、祟り封じの注連縄、巻添えを食らわぬ様にした身の用心。この家のどこかに隠した不幸な犬塚信乃、他の誰かに知られてはあとかたもない。これまでのよしみで、古河の公方の褒美は俺の酒代にする。村長の屋敷に繋がれた父親の縄目を解くつもりなら、信乃を捕まえて俺に引き渡せ」
「いや小賢しきは貴様の贅沢な望み、私は罪人など匿ってはいない」
と言いながら、脇差しの鍔元を握って、鞘の最先端を突き立てた。
「この期に及んでまだ嘘偽りを言うか。断るつもりなら、奥に踏み込んで縄でも掛けてやろう。さあ、どうする」
互いに怯まず、まるでかたつむりが触角を立てた様な争いを見た沼藺の悲しみはやるせなかった。それでも今にも殴り合いになりそうな二人に慌てて、そして惑いながらも、兄と夫の間に入り、距離を押し隔てようとした。
「どうか落ち着いて下さい、外に声が漏れてしまいます。兄上、良くお考えになって、過ちをなさいますな。私は初めて知りましたが、父上の縄目。それが犬塚とかいう罪人のせいであるなら、親に換えることなどできません。夫もまた頑固です。この困難の最中に得意気な顔をして、罪人を捕まえて何をするつもりですか」
沼藺の声は震えた。
「磯を打つ白波も当たっては砕け、雨降ってこそ土も固まると申します。思っていることをそのままに話し合えば、胸の中の火もきっと消えるはずです。お互いに胸の内を仲良く語り合って、父上をお救い下されば、これ以上の幸せはございません」
気を揉む沼藺は双方をなだめようとして、声を曇らせて、泣きながら話した。床下にいるこおろぎも、しばらくの間鳴き止むほどである。
今更ながら小文吾は争いごとを好む訳ではないが、執念深くしつこく絡んでくる房八に重大な秘密をすでに知られてしまった以上、父親に忍べと言われた縛めの刃に掛けた紙のこよりを気にする余裕はなかった。
「私が生きている限り、あの人を渡したりはしない」
と強く思った。そして少しも引き下がることをせず、房八が立てば斬ってやろうと、刀の柄を握りしめた。指の汗で、刀の目釘も湿るばかりである。
その時、房八はまずます苛立って、
「女の判断ってやつは、見苦しいことこの上ない。泣こうが口説こうが、宝の山に入りながら、何もせずに手を空しくして帰るものかよ。喧嘩のとばっちりを食らう前に、そこをどけ」
と荒々しく叫んで、立ち上がりざまにはたと蹴りを入れた。そのつま先はどこをどう狂ったのか、幼児の大八の脇腹を蹴飛ばしていた。
あっ、と一声叫ぶ間もなく、大八はそのまま息が絶えてしまった。沼藺は、その子を抱きしめながら横に転んでよよと泣く。
しかし房八はそれをものともせず、
「信乃は本当に奥の座敷にいるのだな」
と進み出す。
その向かいに小文吾が立ち塞がった瞬間、房八は抜き打ちに、拳鋭く斬りつけた。
小文吾は刀の鍔で受け止めたが、縛めのこよりは断ち切られ、「堪忍」という二文字は今や仇敵となり、反故となってしまったのだ。恨みの切っ先を抜き放ち、房八と丁々発止と鎬を互いに削っていく。
太刀風は辺りを震わせて、二人は戦い始めた。
沼藺はようやく身を起こして見てみれば、我が子はすでに息絶えてしまっている。
「これはどうしたことか、大八大八」
と泣き、そして恨み、見上げれば、兄と夫は何度も切り結んで、生死の境にいる。この子の命も惜しいし、二人は危地にいる。
夫には去られ、離縁を申しつけられ、子供は殺されて、我が身一つだけなまじ生き延びても、この先生きていく甲斐はない地獄の苦しみなのだ。
ふと沼藺は思った。刃の中で、この生命、絶えてしまうのであれば絶えてしまえよと。たちまちにしてその気になり、覚悟を決め、抱いていた大八を床に投げ捨てた。
悲しみのあまり、少しも疑うことなく、
「二人とも情けないったらありはしない。短慮のあまり、気でも狂ったのですか、お止め下さい」
と呼び掛けて、打ち合う白刃の中に入ろうとする。
小文吾は、
「危ない、どけ」
とにらみ、近づけさせまいとしたが、沼藺はまとわりつく様にして離れない。争いを止めさせようとする女の執念は、夫の懐に身を投げ掛けるのだった。
しかし房八はすがる妻をすかさず振り払い、眼を見開いて、
「邪魔をするな」
と蹴倒した。
【白刃交わる時、小児、誤って蹴り殺される】

愁嘆場、古那屋の惨劇です。
大八は蹴り殺され、義兄弟は刀で斬り合っています。
おぬいちゃんの絶望をただ月が冷たく見つめているのです。
髪留めが折れて飛び散り、結び目さえちぎれて、ざんばと広がる乱れ髪。苦しみに喘ぎながらも、夫の足を抱くも、また踏み倒されてしまった。
再び起き上がろうとするが、その頭上に煌いたのは夫の刃である。
踏み込んで小文吾を撃とうとした手元が、どうしたか狂って沼藺の胸元を斬った。急所への深手に一瞬も耐えられずに、あっと叫んで倒れ込んだ。
しまった、と驚く房八の隙を狙って、今だと小文吾が閃かした稲妻の様な白刃が肩先を切り裂いていく。
握っていた刀を振り落して、尻もちを突いて座り込んでしまった房八を再び斬ろうと振り上げた小文吾の刃の下、当の房八はこう言った。
「待て、犬田、言いたいことがある」
と慌てて左手を突き出し、首を上げた。深手の苦痛の中、蜻蛉の様な吐息である。
小文吾は不審に思って、しかし少しも油断はせずに、血に濡れた刀を握り直して、片膝を突いた。そしてきっとにらんで、
「卑怯だぞ、山林。言いたいことがあればさっさと言え。この期に及んで、私に何を言う」
とたしなめると、房八は眼を大きく見開いて、
「そんな疑いはもっともなことだが、本心を初めから明かせば、義を守ることに熱心なあなたは、どうしても俺を斬ることができなかったはずだ。とにかくまずはこの傷を」
と手を上げた。
小文吾はなおも納得できないでいたが、刃に着いた鮮血を拭ってから急いで鞘に納めた。服の袖をちぎって、手拭いと結んで、房八の傷口にしっかりと巻いて端を結んでやった。
「おい、房八。傷口は浅い。さあ、言うべきことがあるなら言え。聞いてやる。どういうことなのだ、山林房八よ」
呼ばれた房八は息を吐いてから、
「なあ、義兄上、いや犬田殿」
口調も呼び方もまったく変わっている。
「栞崎で理不尽だと思っただろう、俺の態度を。あれは、かねてよりあなたを怒らせて、あなたに俺を討たせて、この難局を救おうと思ったのだ。しかしうまくは行かず、あなたの父上の言いつけで忍び耐える教えを守ることにはどうしようもなく、世にも珍しい本当の大勇、勇気に恥じることしかできず、逃げたのだ。しかし諦める訳にもいかず、母とは前から示し合わせており、沼藺を離縁にかこつけて、また今晩あなたの顔色を窺って、もう一度押し掛けてようやく本懐を遂げることができた」
と打ち明けたが、小文吾は眉をひそめて、
「分からん、山林。私は確かに沼藺の兄ではあるが、お前に大きな恩を与えたことなどない。それなのに、その身を滅ぼすまでに志を尽くすという。それが一つ目の疑問だ。たとえお前が志とやらを持って、大切な命を落としたとしても、今宵に迫ってきた私の難題が解決すはしない。これが二つ目の疑問だ。お前、何か他にもあるな」
と問い詰めると、房八は小文吾の声を聞いて、自分を励ましたかの様に、
「そうだ、そのことなのだ。話は長いが聞いて欲しい。輪廻転生の話、因果応報の道理、ものの本で眼にしたことはあるが、自分の身の上に起きることとは一切思っていなかった。これもはかなき今際の懺悔と思って欲しい。話すのも面目なきことながら、一昨年の秋、世を去った俺の父が危篤になったころ、密かに母と俺を枕元に呼び、こう言ったのだ」
房八は今際の懺悔を語り出した。
自分はここの召使いであったが、やがて主人になり、一子の房八も立派に成長した。
年齢は五十を越えており、最後の望みは分不相応というものだが、心に恥じることがあるのだ。
妻の戸山はもちろん、息子の房八にも、素性を明らかにしていない。思っていることを言わずに、もし死んでしまえば、冥土に行く時の心残りとなる。
だから密かにお前たちに言っておきたいのだ。
そもそも自分の父は、杣木朴平と呼ばれた安房の青海巷村の百姓だった。百姓ながら武芸をたしなむ性質で、ことさらに侠気があった。
それ故に元の領主、神余長狭介光弘様の譜代の忠臣、金碗八郎孝吉殿の武名の高さをしきりに敬慕して、その剣法の技を受けようとして、金碗殿のお家にお仕えしたことがあった。
しかしまた数年が過ぎて、佞臣山下定包が神余様の執権となり、みだりにご領主に酒を勧めて、民を虐げることになった。そして謀反の兆しを現わす様になったが、神余光弘様は一向にお気づきにならず、金碗八郎殿はもちろん、主を諫めるものは皆、主家を追われる様になり、とうとうお家は乱れに乱れてしまった。
自分の父はまた義侠心のある人だった。
里の人たちのため、金碗殿のために怒り、そして憤り、どうにかして山下定包を討とうとして、同志の友人である洲崎無垢三という立派な男子と語り合った。
例の山下定包の物見遊山を狙って、落羽畷で待伏せし、乗っていた馬を矢で狙って射落としたのだが、実はそれは仇の定包ではなく、ご領主神余光弘様であったのだ。
洲崎無垢三はその場で討たれ、自分の父はご領主の近臣である那古七郎と決戦して、七郎を斬り倒したものの、その身は遂に生け捕られて、やがて処刑された。
この件の間違いは皆すべて山下定包の奸計だったのに、父は何とはなく迷い、思い惑って、遂にはご領主を殺めてしまった。そして金碗殿は里見氏をお助けして、功成り、名を上げた後に、いただいた俸禄を返上してご自害なさった。
これも父が原因と聞いている。
当時、私は十四歳、母は先に亡くなってしまっている。独り、安房の国を逃げ出して、この市川の地に流れ着いたが、里の人のお力でここの召使いになった。
それから数年して心を込めて精一杯お仕えしていたら、前の主人に大変喜んでいただき、それなりの者と認められたのだろう、跡を継ぐ男児がいないため、そなた、戸山の婿にしていただいた。
ところが去年から親戚となった房八の舅殿の行徳の文五兵衛は、那古七郎の弟ではないか。今年、初めて耳にした。
文五兵衛の婿は、兄の仇である杣木朴平の孫である、と他人様の口からでも伝え聞けば、どうして娘をおめおめと房八のところに置いておくだろうか。破談になること、間違いなしだ。
今は知られていないからこそ、誰も文句も言わないが、このまま過去の恨み、因縁を隠したまま、過ごして行けば、きっと子孫に災いを起こすことになると思う。
しかしながら、沼藺は賢く、他人様も羨む見事な嫁だ。早くに授かった孫は、まだ乳房が恋しい年齢であるのに、母と別れさせるのは、とても酷く、辛いことだ。那古七郎の弟と知らずに親戚になってしまったのは、悪い宿命とも言える。孫の拳が普通の人と違うのも、今後三世の後まで恨みを引いてしまった神余様、那古殿、金碗殿の祟りか、と思い悩んで病み患ってしまった。
私の死期は、もう間もない。
他人様の恨みを解こうとするなら、陰徳、つまり人知れず、密かに行う良い行いより良いものはない。
房八、お前は親に代わって、祖父の杣木朴平のために汚名をそそぎ、この古い怨恨を解いてくれるのであれば、この上ない親孝行となる。
また房八は祖父に似て侠気があり、武芸を好む男だ。義のためには命を惜しむはずもない。
戸山よ、お前も母として、心を強くして、我が子を諫め、そして励ましなさい。
と俺の父は密かに遺言されたのだ。
亡父は義理に対して明るく、懸命であったことは、すでにご存じの通りだ。
俺は父に及ばずとも、子供としてその志を継がなくてはならないと決意した。祖父の汚名をそそぐために、杣木の名前から杣の字の部首の木へんを取って、木の字に合わせて、自分から山林と名乗ったのは、そのころからのことだ。
このことを舅である文五兵衛殿とあなたの親子に早く申し上げるべきだったが、人一倍の努力を尽くしてから堂々と遺言の内容を話そうと思っていたものの、その機会もなく誠意を示すことが出来なかった。
あの日、八幡の相撲では、あなたと俺が目当てにされて、修験者の求めに応じたが、俺は元々勝負を好まず、技も力もあなたに勝つべくもない。怪我してでも勝ってはならないと思いながら、果たして負けてしまったのは望外の喜びでもあった。負けたことをどうして妬ましく思うことがあるというのだ。
それをとやかく言うのは、事情を知らない者の浅知恵というしかない。
そして昨日は、祇園祭の神輿洗いを見物しようとこの浜にやって来た。舅の文五兵衛にご挨拶しようと思いながら、入江橋を渡ったところで、舅殿が遥か遠くの水辺の葦の中の船で、見慣れない怪しい二人の若者と語り合っているのを見た。
【入江橋】

現在の市川は入江橋。北から南に向かっての一枚。
大声ではしたなく声を掛ける訳にもいかず、近くに寄って思わず立ち聞きしてしまうと、犬塚殿と犬飼殿の宿縁による出会いの物語、あなたもまた二人と同じ様な珠があり、痣まであるという似た境遇にある話を聞いて、俺は俄然感激したのだ。
しかし今更ながら、出るに出られず、葦の原に隠れたまんま、独りつくづくと考えたのだ、俺にも似たような珠と痣さえあれば、あの人たちの仲間に加わって、言わば世の豪傑などと言われるはずだろうと。
しかしそんなものはないし、祖父の過去の悪縁があり、皆さんと義兄弟の契りを結ぼうと思っても、許される訳もない。
だが義兄弟にはなれなくとも、ここは千葉様の領地で、古河の御所のお味方だ。犬塚殿、犬飼殿が詮索されて、困難に陥ることがあれば、密かに舅殿と合力して、命を落とすようなことがあっても、皆さんの危機を必ずお助けしよう。
そうすれば父の遺言を果たせるし、今がその時だと、心の中で思い定めた。
日が暮れてから、お二人は古那屋へ主人の舅殿に伴われて向い、あなたは一人留まって、城からの船を押し流したり、血の付いた衣服を背負って、帰ろうとしていた。
その時は胸が一杯で感動していたので、何か言おうと葦原から飛び出してしまったが、結局何も言えずにあなたを引き止めてしまった。
あなたは俺を曲者だと思って、振り払って拒絶する態度だったから、とうとう声も掛けられず、しばらく争うことになってしまった。俺は脇腹を強く打たれて、倒れている間に、あなたは走り去ってしまったのだ。
あとにはあなたが落とした麻衣だけが残っていた。もし他人に拾われてしまえば災いの種になると思って、すぐに拾って、夜更けに家に帰った。
母にまだ何も言っていないのに、早くも犬塚殿を生捕りする触れが村長から出ていた。
その時俺はまた思ったのだ。
俺の舅は旅籠屋の主人である。犬塚殿、犬飼殿を匿おうとしても、人の出入りが多いから、すぐにばれて、二人はもちろん、舅殿とあなたの親子も罰せられるだろう。だからと言って、今更、あなたと義を結んだ人々を追い出す訳にはいかない。
今こそ俺が命を懸けて、あなた達の危急存亡を救わなくては、遂に助かる道はないと思った。
昨日、入江の葦原でつくづくと良く見たが、例の犬塚氏の面影は俺の顔に似ているようだ。
だから俺のこの首を大塚殿の首と偽り、古河の御使者に渡してしまえば、舅親子に祟りもなく、犬塚殿を無事落ち延びさせることができる、当座はこれより良い方法はない。
しかし似ていないところがあって、俺は相撲が好むが故に、前髪を切らなければ、顔つきは似ていると言っても、そのままでは騙すことは難しい。
と気づいたが、とにかく時間がない。
八幡の相撲に負けたので、生涯土俵に足を踏み入れまい、と言ってはみたものの、今朝、急いで前髪を切って鏡を見てみれば、年のころも顔つきさえ、犬塚殿に良く似ているのだ。
そこでいよいよ覚悟を決めて決心し、密かに母に俺が決意したことを告げた。もちろん母は涙を浮かべてお許しになるはずもなかった。
俺もさすがにお許しをいただくことを諦めて、しかし自決の遺書を母上がご覧になり、もう止められないと思われたのか、お泣きになりながらようやくお許しになった。
俺の母上もまた義理に篤く、男勝りなところがあるので、今生の暇乞いとして、思うことを存分に言い尽くした。
事情を知らずに気の毒であったが、急いで沼藺を離縁することにした。実家へ帰すと説明し、その後のことは母に任せた。
俺は浜に向かったが、思い掛けず栞崎で、あなたが古那屋に帰るところに出会った。都合の良いことに、誰も通る者はいない。討たれるには、ちょうど良い場所だと思った。
あなたは身代わりのことを知らずとも、犬塚殿と俺の顔が似ていると誰でも思うはずだから、俺が死んだ後、俺の首を犬塚殿の身代わりに使えるはず、とあなたが気づかないはずはない。
そう思えば、ちっとも迷わず、浜での喧嘩にかこつけて、理不尽に責めて、罵り、蹴倒してやった。
しかし、尚もあなたは争わず、お父上のことを思って耐え忍んだ。見上げたその孝心にはなすすべもなく、とうとう殺されるという本意を遂げられずに別れることとなった。
その帰り道、酒を飲もうと誘ってきた観得を先に行かせてたり、追いついてはまた先に行かせたりしている間に、稲塚の近くまで来た時だ、あなたはまた危険に直面していた。
古河から犬塚殿捕縛の大将、新織帆大夫とやらの軍勢に取り囲まれて、あまつさえ舅の文五兵衛殿が縛られて、連行されていた。
舅殿、いけないと俺の胸は騒いだが、いかんせんお救いできる手立てもなく、藪の陰に隠れて一部始終を見聞きすることしかできなかった。その後、あなたは古河の虎口から逃れて、家路に急いで向かって行ったが、いなくなった後に一通の紙が残っていた。
拾い上げてみれば、犬塚殿の人相書きだった。麻衣と言い、人相書と言い、不思議なことに他人には拾われず、俺の手に入ったのはせめてもの幸いだった。
今宵こそ俺は本意を遂げてやろうと誓った俺は、心に勇気が湧いた。
前に示し合わせた通り、他の宿で密かに母が来るのを待ち、母が来ると更に打合せをして、例の人相書きを渡した。それはあなたに心をかき乱し、騒がして、そして今晩こそ討たれるためだったのだ。
そのため夜の間は裏門の辺りに忍んでいたので、犬塚殿の大病のことも、あなたの苦心も良く知っている。
義兄上。どうか。
山林房八は長い語りを続けている。
一度言葉を切って、小文吾の顔を見つめた。黙る小文吾に対して、また房八は続けた。
俺の願いは、兄貴、いや犬田殿。
俺の首を取って、役に立てて、舅殿の縄目と犬塚殿の危機を救う手段を巡らせて、我が家の古い宿怨を晴らして欲しい。
晴らしてくれたならば、これを俺は最期の功としたい。
昔、祖父の杣木朴平は山下定包を討とうとして、領主を討ってしまった。あまつさえ、那古七郎殿を討ち取ってしまい、このためにその師であり旧主でもある金碗殿の腹を切らせてしまった。
しかしその孫の、この房八が今回の義烈によって、犬塚殿という孝子、義人の無実の罪と古那屋文五兵衛という舅の縄目を解いたと、言い伝えに残して下さるのであれば、祖父の汚名をそそぎ、父の遺訓も空しくせず、死んでも名誉となり俺の喜びとなる。
百歳の寿命を持って、富豪になったり貴人になるよりも、それに増すことはない。
しかし、俺の名誉のことよりも尚、可哀想なのは沼藺と大八だ。
親子三人が同じ日、同じところで命を落とすなど、これまた祖父の悪縁による報いなのかもしれない。
妻には少しも意中の秘密を言っていなかった。怒りに任せて離別すると思ってたはずだから、きっと俺を恨んでいたはずだ。
俺はこの件を必死に究めようとしてはいたものの、沼藺は年はまだ二十歳にならず、俺が死んだ後は未亡人のまま過ごさせるのは気の毒だ。だからこのことにかこつけて離別してやれば、却って沼藺のためになる、と思ったがために、冷たくあしらってしまったことが残念だ。
こうなると前から分かっていれば、実家に戻すのではなかった。
大八をつけてやったのは、大きくなるまでの間、伯父上、つまりあなたに託して育ててもらおうと頼むつもりだった。
しかし考えは裏目に出てしまった。過ちとは言いながら、妻も子も手に掛けて殺してしまい、遂に俺自身をも殺すことになる。輪廻応報とはここまで運命を縛るものなのか、犬田殿。
こんな悪縁を結んでしまったが故に、沼藺の横死は夫の悪縁の報いが祟ったもの、舅殿のお嘆きもあなたの恨みも想像だに面目もない。
義兄上、いや犬田小文吾殿、どうか許して下さい。
房八の長い懺悔が終わった。血涙の告白であった。
血に染まった左手を上げて拝むほどに、心の中の誠を告白したその先祖に対する孝行心と小文吾たちに対するその節義。
傷の深手に屈することなく長い長い物語に、小文吾は耳を傾けて、そして左手で胸を叩いて感動した。
そして涙を払って、
「思い掛けないことを言うものだ、山林。お前は親の遺言を守って、旧い怨恨を解決するため、自分の身を殺して仁をなそうとする。その心情こそ真に素晴らしい」
更に続けた。
「お前の祖父が誤って犯した罪は重くても、子孫、三代過ぎた今になってその汚名をそそごうとするその孝行心は、この日の本にも中国にも多くはないはずだ」
房八は力なく笑みを浮かべる。
「犬塚殿の面影は、お前とよく似ている。しかし歴代のご主君のために身を殺して、死の代わりを務めようとする忠臣など稀だ。お前と私は親戚だが、犬塚殿はお前の知り合いではない。また八幡の相撲によって、私のことを不快に思っている様に見えたから、今回の危難に困っていても、苦しみをお前に告げて知恵でも借りようとも思わなかったのだ。まして身代わりのことなど、思いもつかず考えもしなかった」
小文吾は房八の腕を掴んで倒れない様に支えた。
「しかし今思いもしなかった助けを得て、父の縄目を解く方法と私の義兄弟の命を救う手立てになることが分かり、意外なことで嬉しいが、しかしまた哀しさもひとしおだ。人を殺して、人を救うことなど、元から私の願いではない。犬塚殿も同じはずだ。しかし」
自分に言い聞かせているのである。
「しかしながら、今更、お前の願いを断って、言うことに従わないということは、水に懲りて湯を辞す、つまり無駄なことだ。お前をここで犬死にさせても何の役に立たない」
房八は微かにうなづいた。
「また沼藺と大八の不慮の死を遂げてしまったのは、思わぬ災いだった。哀悼の涙が胸に満ち、無念の思いがはらわたを断つが、すべては天の定めた薄命の致すところ、嘆く他になす術もない。しかし妹が刃に向かって身を殺してしまったのは、犬死にではない」
房八の息が弱くなってきていると小文吾は感じた。
「我が家には、破傷風の変わった処方が言伝えられている。男女、それも若い者の鮮血をそれぞれ五合ずつ採って合した上で、傷に注いで洗えば、死にかけている者の魂を呼び戻して、その傷をも治すこと、箒が塵芥を払うように百発百中で間違いないらしい。例えるなら弓の達人、養由基が百歩離れた先から柳の葉を射ったかのように、効くらしい」
小文吾は力を込めて話し続けていく。
「そしてこれは、我が伯父の那古七郎の言伝えである、と父から口授された処方であるが、求めてそう簡単に手に入る薬ではないから、施すのは容易なことではないと思っていた。犬塚殿は明け方から破傷風で命が危ない。そのために犬飼殿は、武蔵の国の芝浦に良い薬があると聞いて、それを求めて人目を忍んで今朝から向かっている。しかし道は遠く、いまだお帰りではない。例えお前の言う通りに任せて、今宵の危機を切り抜けたとしても、犬塚殿の命が尽きてしまえば、すべては徒労に終わる。しかし」
涙をこぼして小文吾は言う。
「沼藺の突然の落命によって、図らずも男女の鮮血を入手することができる。不幸中の幸いとは正にこのことなのだろう。天か人か、望むところはただ塞翁が馬、うまり人生における幸と不幸は予測できず、何がきっかけで良いことや悪いことが起こるかまったく分からない。これはもしかして、犬塚殿の日頃の孝心と義を重んじて行う力が世の中で優れているため、それを憐れみなさった神明仏陀のお導きによるものかもしれないぞ」
小文吾は房八の身体を揺すって叫ぶ様に言った。
「安心しろ、山林、お前と私の前世は共に殺し合った仇敵かもしれないが、今や旧怨は氷解した。恩義は千引の岩よりも重く、お前の功徳を長く言い伝えて、正義を重んじることのお手本にしよう。そうは言っても、これほどまでに逞しく、また志のある勇士を、あの珠がなくても、また少しばかりの痣がなくても、我らの同志に加えられたら、今後ずっと頼もしかったというのに。親子三人が一緒にここで命を落とすなど、無念以外の何でもない。賢くあられて、また雄々しくもある義母上と言えども、このことをお知りになれば、さぞかし気を落とされて、お嘆きになるだろう。ああ、何という痛ましいことか、どうしたら良いのだろう」
義理に縛られた愛する人や大切な人と、いつかは必ず別れなければならない苦しみに嘆く他はなかった。
そしてこの浮世は辛く、無情だった。丑三つの鐘の音が遠く響き、小文吾はただ切なく聞いた。
(続くかも……)