馬鹿琴の旅立ち

独り言を綴っています。主にお城や史跡がメイン。時にはお相手して下さい。

なぜなに八犬伝Ⅵ

第二十六回から第三十回まで超意訳:南総里見八犬伝をお送りしました。
今回は芳流閣の決闘の直前と額蔵の暴れっぷりと危機一髪まででした。
そしてとっても可哀想な浜路ちゃん。オヨヨヨ。

例によって、謎めいた箇所がいくつかありましたので、突込みしていきましょう。

①二十七回の霧降山ってどこ?
第二十七回、寂寞道人肩柳という謎(笑)の行者が出てきました。
噂では、

年来吉野、葛城、三熊野はさらなり、駿河の不二、肥後の阿蘇山、薩摩の霧降、下野の二荒山、出羽の羽黒山なンど、靈山名勝を、いく遍となく登陟し、神人異物に邂逅して不老の術を得たりとなん。

と書いてあります。原文ヴァージョンです。
これを私は、以下の様に訳しました。

ここ数年、吉野、葛城、熊野三山はもちろん、駿河の富士山、肥後の阿蘇山、薩摩の霧島、下野の二荒山、出羽の羽黒山など霊山名勝を何度となく登山して、神仙に出会って不老の術を得たという話もある。

 

どこか違いが分かりますか?

簡単です、薩摩の霧降と書いてあるのを、私が勝手に霧島としてしまいました。
他の山と地名は合っているのですが、薩摩と霧降だけがマッチしなかったのです。
そこで馬琴翁は霧島と【間違えて】、霧降と書いたのではないかと思った訳なのです。
調べた限りでは、南九州には霧降というお山はありませんでした。

でもよく考えると、フィクションなんだから、霧降でも良いんですよねえ。
悩むところです。

 

②左母二郎の逃避行のコースが不思議な件
第二十七回、浜路をさらった網乾左母二郎は、雲助駕籠かきを雇って、京を目指しています。
村雨を持って室町将軍家に行くつもりなのですね。
で、そのコース。由美村が良く分かりませんでしたが、雲助駕籠かきが駄賃を要求した時に、こう言っています。

「駒込の宿を越えて板橋までと決めたのに」

ちょっと地図をご覧下さい。

大塚から駒込までは一緒、ここで板橋を目指すのなら、西北方面に行くべきです。
木曽路を目指して上京すると言っているので、正しいのです。
赤いルートが計画上のルート、青いルートは舞台になったところ。

しかし雲助駕籠かきは、実際には、寂寞道人肩柳が火定の儀式を行った本郷円塚山まで走っていました。
土太郎も蟇六に尋ねられた時に、小石川、本郷坂に向かっているのを見た、と言っています。

駕籠は、駒込から南東方面に向かっていたのです。
その間、網乾左母二郎は何をしていたのでしょうか?
夜の道は分からなかったのでしょうか。元々関東管領の鎌倉の人だったみたいなので、大塚近辺の土地には明るくないとか(笑)

ただし長禄江戸図という資料があります。
Wikiによれば室町時代の長禄年間(1457年 - 1460年)の江戸を描いたとされる古地図ですが、地図は同時代に描かれたものではなく、江戸時代に描かれたものと見られる。写本の形で流布したが、原図の制作者・制作年は不明。
一部を拡大、抜粋、分かりやすい地名を入れてみました。

これを見ますと、駒込から板橋には直接行けない様に思われます。
信乃の母上、手束ちゃんが参詣した滝野川弁財天を迂回しなくてはいけません。
更に巣鴨の奥には、山だか丘があるようですね。

もう一つの地図を見て下さい。

のHPからお借りしています。

神田山という山があります。本郷台地の南端なのですが、徳川家康関東入部後にこれを削って、平らにしたのですね。
つまり家康以前は山があり、邪魔(?)だった訳です。

現代の感覚では単純に西北に行けば良いのですが、当時はわざわざ山を迂回しなくてはいけなかったのかもしれません。
それならば納得しますね、左母二郎さん。

 

③今わの際に長々と語る道節の無神経
浜路ちゃんが今わの際に、道節は長々と語っています。
練馬家の由来、火遁の術、犬山家の騒動、浜路が養女に出されたことなど延々と語ります。
もう最期と悟った浜路ちゃんは、可憐にも奪われた村雨を許婚の犬塚信乃に渡してくれと、異母兄に頼みます。
しかしにべもなく道節は断り(´・ω・`)、

「長年の願いを遂げて、命が残ればその時こそ、お前の夫である犬塚信乃とやらの安否を問い、無事に会えたら村雨丸を返そう。だが、当てにならないことなので、はっきりと約束することはできない。もし私が敵の手に掛かって死んでしまえば、この太刀も敵に奪われてしまう。君主や父のためには、この身を捨てるつもりだ。どうして妹の夫のことなど気にすることができようか。貞操を守り節義を尽くすことは、婦人の道だ。だが、忠義を尽くし親に孝行することは男子の道である」

いやいや。
せめて敵討ちを遂げた後に、必ず渡そうくらい言ってもよろしいのではありますまいか?

だって、上記の台詞を聞いた途端、希望を失った浜路ちゃんは息絶えてしまうのですから。
ひょっとして浜路を殺したのは、網乾左母二郎ではなく、異母兄の犬山道節では……(-_-;)

 

④第二十九回、長明法師は鳥部野で火定していません
異母妹の浜路を言葉でとどめを刺した道節は、独り言でこんなことを言います。

「およそ僧が最期を迎えた時に、薪を積んで自らの身体を焼くことを火定と言う。我が国では信濃の国の戸隠山の長明(ちょうめい)法師が鳥部野で火定したこと、また紀伊国那智山の応照(おうしょう)法師も最期に火定をしたことが第十二巻忍行篇に記されている」

気になったので、長明法師と応照法師のことを調べてみました。

長明さんはこちら。
平安時代の戸隠山の僧。
25歳で言語を絶って法華経を読誦し、さらに3年は横にならなかった。
康保年間(964年-968年)に「私は一切衆生喜見菩薩である。ここに来るまでにすでに三回身を焼いた。今命が尽き、兜率天に上る」と言って、薪を積んで焼身した。『拾遺往生伝』によれば、永保(1081年 - 1084年)年間である。
戸隠神社奥院に「釈長明火定所」と言われる場所があり、「釈長明火定之所」と記された古碑と五輪塔がある。

応照さんはこちら。
平安時代の僧。
紀伊熊野那智山の修行者。焼身入定を発願し、松葉のみを食して準備。
紙衣をつけ、手に香炉をもって薪上に結跏趺坐し、法華経を読誦して焼身した。
日本初の焼身入定者と伝えられる。

なるほどなるほど……あれ?
長明法師は戸隠神社奥の院で昇天された様です。
馬琴翁は、鳥部野で火定されたと書いてありますね。
鳥部野は京都東部では……?
ああ、きっと参考文書の元亨釈書に、きっと鳥部野で往生したと書かれていたんでしょうね。

 

⑤道節は毒殺されたのではなく、絞殺されてから生き返ったのです
火遁の術を使う異端の犬士、犬山道節。
彼のWikiにはこう書かれています。

 

忠の珠を持つ。左肩に牡丹の痣。
1459年長禄3年9月、武蔵国豊島郡生まれ。父は練馬家重臣・犬山道策貞与。浜路の異母兄。
生まれながらに左肩に瘤があった。
幼少時に父の妾(浜路の母)に毒殺されたが、墓の中で蘇生した。
犬山家が仕えた練馬氏は豊島氏とともに扇谷定正らに滅ぼされ、父も討死したため、扇谷定正を仇として執拗に付け狙うことになる。

 

あれ?毒殺されましたっけ?
第二十八回を見てみましょう。

1464年寛正四年の春の末、我が父は主君練馬殿の使者として、京都室町将軍家に伺候した際、黒白は今坂錠庵という医師と密かに語らって、我が母を毒殺し、私を絞め殺し、疫病で母も子も急に亡くなったと偽って、菩提寺に葬ってしまったのだ。

 

道節はあくまで絞殺されたと語っていますよ。
原文はどうかな?

 

わが母を毒殺し、吾儕を溢殺しつつ

 

やっぱり絞殺ですね。
どうなたかWikiの修正をして下さい(笑)

 

⑥たわしの歴史
第二十九回、たわしを汁物の具として出してしまう亀篠さん、そそっかしいにもほどがあるでしょう。
しかし、鯰の筒切りとゴボウのお吸い物ってうまそうですねえ。
鯰の切り身のお吸い物の写真がありました。

これをたわしと間違えちゃうなんて、あわてんぼさんな亀篠。
たわしの歴史はどうなっているでしょうか?
AIに聞いてみます。

明治時代に発明された「亀の子束子」のような形ではないものの、江戸時代にも植物の繊維を使ったたわしは存在しました。
特に、藁やシュロ(棕櫚)の繊維を束ねたものが使われてたそうです。 


江戸時代に使われた「たわし」
切り藁(きりわら):わらを短く切って束ねたもので、食器などの洗浄に使われました。
棕櫚の繊維:ヤシ科の植物であるシュロの繊維は、縄や箒の材料として江戸時代から利用されていました。これを束ねたものが、汚れをこすり落とす道具として使われていました。
ヘチマ:栽培したヘチマの実を乾燥させて、スポンジ状の繊維をたわしとして利用していました。
竹:竹を細かく割いて束ねたささらにも、釜や鍋の汚れを落とすために使われていました。

今でも棕櫚のたわしを作っておられる会社さんです。

でもお吸い物に入れてはいけませんよ、まるでお嫁さんをいじめるお姑さんみたいになってしまいます。

 

⑦鮮血をすすって咽喉を潤す信乃
第三十回、芳流閣の決闘で、信乃は何人もの古河城の武士を倒します。
さすがに無傷とはいかず、流血してしまいます。
そこで咽喉が乾いた信乃は、己の血をすすって……えーっ、信乃はセルフ吸血鬼かよ!?
プロレスなんかでたまに大流血シーンを見ますが、飲めないよなあ(笑)
まあ、他人の血は吸血鬼でもない限り飲めないですが、自分のならかろうじて許せますかね。

咽喉が乾いてもまあ自分の血であったとしても、飲むのはやめましょうね。

 

⑧十手の歴史
第三十回、とうとう捕物の達人、犬飼見八が間諜の疑いを掛けられた犬塚信乃を捕えるために出陣します。
彼は二階山城介という達人の高弟で、得物は十手らしいのです。
十手と言えば江戸時代の同心、岡っ引きが持っていたのを時代劇で良く見ますが、この頃、つまり室町時代にはあったのでしょうか。
例によって、AIに聞いてみます。

Q:十手の歴史について教えて
A:十手の歴史と起源
十手の起源については諸説ありますが、室町時代には既に類似の道具が使用されていたと考えられています。

兜割・刃引からの発展説: 刃を引いた刀状の打撃武器である「刃引」や、その鍔が鉤に変形した「兜割」が原型となり、十手に進化したという説があります。

中国伝来説:明時代末期に中国から伝わったとする説や、中国の暗器(隠し武器)である筆架叉(ひっかさ)が日本に伝来したとする説もあります。

はえーっ、ではこの頃にあってもおかしくないのですね。なるほど。

 

⑨北越雪譜
第三十回、物語りの後、番宣ならぬ薬の宣伝コピーの文章が続いています。
婦人病の薬、販売場所、調合者、ちなみに滝沢宗伯さんは若死にしてしまった馬琴翁の息子さんです。
更に馬琴翁自身の新作、続き物、そして他人の著作ですが、越後の塩沢の住人、鈴木牧之の越後雪譜について書かれています。
これは北越雪譜のことですね。近々出版と書いてあります。

馬琴翁が紹介している通り、江戸の人が知らない雪国の生活を越後の商人鈴木牧之が書いて、売れた作品なのです。
鈴木牧之は出版したくて仕方ないのに、江戸の山東京伝や滝沢馬琴に依頼をするのですが、多忙のせいか後回しになって本を全然出版しないのです。
酷い話(笑)
そのうち、馬琴翁は八犬伝に取り掛かり、鈴木牧之の催促にも応じなくなるという(´・ω・`)
また山東京伝も亡くなってしまい、まったく話が進みません。
そこで出てきたのが京伝の弟、山東京山さん。
この人は良い人(笑)で、わざわざ越後に出張して出版の打合せまでしているのです。
しかし馬琴翁がまた大失策をします。預かっていた原稿を何故か返却しない(笑)
このため鈴木牧之は、また書き直す必要があったということですよ。
しかし1837年天保8年、構想30年目にして完成したのです。
1837年と言えば、八犬伝は第百十六回から第百二十五回が書かれたころ。

第三十回が書かれたのは1819年文政2年ですから、鈴木牧之に頼まれてそのころは越後雪譜だった原稿を【近々】出版するつもりでいたことになりますね。
出す出す詐欺か、と呼んでも良いくらい?

さてその近々(笑)出すつもりだった越後いや北越雪譜の紹介文が面白いと思うのです。

 

この書は、越後北部の冬から春にかけての大雪の珍しい光景、なだれ、吹雪、倒れた家屋の様子、ソリ・かんじき・スカリ(魚籠)・スンペイ(すんべ:藁で編んだ雪靴)などの図解、霊山、名所、珍しい魚や怪獣、年中行事など、漏れなく絵図に表した、非常に貴重な書物である

 

非常に貴重と思うなら、もう少し尽力してあげなさいよ、馬琴翁。

ま、それはともかく、そりやかんじきは分かります。
スカリ、スンペイ(すんべ:藁で編んだ雪靴)が分からないし、怪獣って何でしょうか。

北越雪譜の原文を斜め読みしてみました。
今は便利で、ネット上の青空文庫に乗ってるんですよ。

ありました。
まずはスカリ。
長いですが引用しますね。

【すかり】は、縦の長さが約75cm~90cm、横幅が約36~39cmで、山で採れる竹を曲げて作られている。
かんじきとすかりの二つの道具は、冬の雪が柔らかい時に、足が雪に踏み込まないようにするために用いる。
これらを履き慣れていない人は、一歩も歩くことが困難である。しかし、慣れた人はこれを履いて獲物を追いかける。

百樹(山東京山)いわく、私(京山)が北越(越後)へ旅をして、鈴木牧之老人の家に滞在していた時、老人は家の者に命じて、雪の中をかき分けて進む様子を見せてくれた。私は家のそばにいて、その様子を図に写し取った。
彼らが履いていたものが、かんじきと【すかり】だった。

私も戯れに履いてみたが、一歩も前に進むことができなかった。ところが、家の者が歩く様子は、まるで馬を操るように軽やかだった。

だそうです。

 

次はすんべ。
雪崩の章にありました。

夫は蓑と笠をつけ、藁で作った脚絆と雪靴(すんべ)を履き、土産物を軽い荷物に担いだ。
こうして夫婦は両親に暇乞いをして、喜び勇んで連れ立って出かけた。

すんべについては、ここまでしか分かりませんでした。すいません。

 

最後に怪獣。
北越雪譜には熊の話、雪虫、狐火、幽霊話が載っています。
大猫、狼とあり、なかなか怪獣について触れているのが見つからなかったのですが、ようやく発見しました。
異獣という章を見つけました。ちょっと超意訳します。

 

魚沼郡の堀之内から十日町へ抜ける道は七里(約28km)あまりあり、村々は点在しているものの、ほとんどが山中の抜け道である。
ある年の初夏のこと、十日町の縮み問屋が堀之内の問屋へ、白い縮みを急ぎ送るようにと使いを頼んできた。そこでその日の昼過ぎ、竹助という名の屈強な男を選び、荷物を背負わせて送り出した。
竹助は山道を進み、道のりが半分ほどになった頃、時刻は午後4時頃(七つに近い時刻)になっていた。竹助は少し休もうと道の脇の石に腰掛け、焼き飯を食べていたところ、谷間の根元の低い笹を押し分けてやって来る者がいた。

近くに寄ってきたそれを見ると、猿に似ているが猿ではない異形の生き物である。頭の毛は長く背中に垂れており、その半分は白く、背丈は普通の人より高い。顔は猿に似ているが赤くはなく、目は大きく光を宿していた。

竹助は気の強い男でしたので、用心のために差していた山刀を抜き、寄ってくることがあれば切ろうと身構えた。ところが、その生き物には敵意を示す様子は全くなく、竹助が石の上に置いた焼き飯を指差し、くれと乞うている様である。
竹助は察して焼き飯を投げ与えると、生き物は嬉しそうにそれを食べた。竹助は気を許し、さらに焼き飯を与えると、今度は近くまで寄ってきて食べた。

竹助は、
「私は堀之内から十日町へ行く者だ。明日はここを帰るつもりだから、その時また焼き飯をやろう。急ぎの使いだから行くぞ」
と言って、下ろしておいた荷物を背負おうとした。するとその異形の生き物は荷物を取り上げ、軽々と肩に担いで先に立って歩き始めた。
竹助は、これは焼き飯の礼に私を助けてくれているのだろうと思い、その後について行った。その生き物は荷物を担いでいるにもかかわらず、まるで何も持っていないかのように足取りは軽やかだった。
おかげで竹助は険しい道も楽に進め、およそ一里半(約6km)あまりの山道を越え、池谷村の近くに着いた時、生き物は荷物を下ろし、風のように速く山へ駆け上って行った。

この話は竹助が十日町の問屋で詳しく語ったものとして、今も語り伝えられてる。これは今から四、五十年前の出来事であり、その頃は山仕事をする人々がこの異獣を時折見た者もいたそうである。

前に話した池谷村の住民の話では、私が十四五歳の頃、村の娘で機織りの上手な者がおり、問屋から名指しで縮みを注文されていた。まだ雪が残る頃、小さな窓の下で機を織っていたところ、窓の外に立っている者がいた。

見ると、猿の様だが顔は赤くなく、頭の毛は長く垂れていて、人よりも大柄な者が覗き込んでいた。この時、家族の者は皆山仕事に出ており、娘が一人きりだったため、とても怖くて驚いた。逃げようとしたが、機織り機に向かっていたため、腰に巻いた物が邪魔になり、思うように動けない。そうこうしているうちに、その生き物は立ち去って行った。

やがて、その生き物は竈のそばに立ち、しきりに飯櫃を指差して、欲しそうな様子を見せた。娘はこの異獣のことをかねてから聞いていたので、飯を握って二つ三つ与えると、嬉しそうに持って行った。その後、家に人がいない時は時々やって来て飯を乞うので、後には娘も慣れて、恐ろしいとも思わずに食べさせていた。

さて、この娘が急ぎの注文品である大変重要な縮みを織りかけていた時、たまたま生理になってしまい、機織り小屋に入ることができなくなってしまった。(機織り小屋は神聖な場所とされ、生理中の女性は入れない慣習があった。詳しくは初編に記されている)
作業を止めれば納期に遅れてしまうため、娘はもちろん、両親もこのことを心配し嘆き悲しんでいた。

生理が始まって三日目にあたる日の夕暮れ、家族の者がまだ農作業から帰っていないことを知っていたのか、例の異形の生き物が久しぶりにやって来た。
娘は人に話すように生理のせいで機織りができないという悩みを語りながら、粟飯を握って与えた。
すると、生き物はいつものようにすぐに立ち去らず、しばらく何かを考えているような様子を見せてから、やがて去っていった。
そして娘は、この夜から生理がぴたりと止まってしまったので、不思議だと思いながら身体を清めて機織りを織り終え、父が問屋へ持って行くことができた。父が問屋に着いたと思われる頃、娘は時期でもないのに急にまた生理が始まってしまった。
娘は、私の嘆きを聞き入れて、あの生き物が助けてくれたのだと思い、この話を聞いた人々も皆不思議に思ったと語っている。

その頃は、山中でたまにこの生き物を見た者もおり、誰かと連れ立っている時には姿を見せなかったそうである。

また、越後高田藩士が用事で木こりを連れ、黒姫山に入り小屋を作って山で生活していた時、猿に似て猿ではないものが、夜中に小屋に入ってきて焚き火にあたっていたそうである。
背丈は六尺(約180cm)ほどで、赤毛が生え、裸身で、体全体が灰色で、毛が抜け落ちたように見え、腰から下は枯れ草をまとっていた。
この生き物は、人の言うことに良く従い、後には人によく懐いたと、高田の人が語ってくれた。

筆者思うに和漢三才図会の寓類の部には、飛騨や美濃、あるいは西国の深山にもこのような異獣がいることが記されている。
そうであるならば、どこの深い山々にいるものなのだろう。

竹助さんの荷物を運んでくれる異獣さん。焼き飯のお礼なので、心優しいんですね。

 

しかし、これってヒバゴン?雪男?イエティ?
今から250年くらい前には雪国の越後にはいたんでしょうか、凄いなあ。

 

以上なぜなに八犬伝Ⅵでした、でわ。