馬鹿琴の旅立ち

独り言を綴っています。主にお城や史跡がメイン。時にはお相手して下さい。

なぜなに八犬伝Ⅶ

第三十一回から第三十五回まで超意訳:南総里見八犬伝をお送りしました。


今回は、芳流閣の決闘から、巻き込まれ体質の小文吾の苦労まででしたね。
小文吾の長い、本当に長~い一日、彼はこの先も大変なんでしょう。

超意訳をしていて、やはり謎がたくさんありました。一緒に見ていきませんか。

 

①殷の三賢、微子、箕子、比干について

第三十一回の序文、古代中国の殷の時代において、殷の三賢、微子、箕子、比干は、周の西伯こと武王には忠義を尽くさなかった、という文があります。
殷の三賢とはどういう人なのでしょうか。

かつて封神演義という書物が、安能務さんの訳で出版されました。読んだことのある方は分かると思います。封神演義はアニメ化もされていますので、アニメから本を読まれた方もいるでしょう。

さて殷の三賢とは、古代中国の殷(商)王朝末期、暴君として知られる紂王の悪政を諫め、国を立て直そうとした3人の賢人のことを指します。
具体的には、


箕子(きし):紂王の叔父。諫言が受け入れられず、狂人のふりをして身を守ったとされる。後に朝鮮に行って、箕子朝鮮を築いた。
微子(びし):紂王の異母兄。殷の将来を絶望視し、殷を見限って去った。後に周に降伏し、殷の祭祀を行うことになる。
比干(ひかん):紂王の叔父。あくまでも諫言を続けたため、紂王の怒りに触れ胸を切り裂かれて殺害された。

ちなみに周の西伯の武王は、父と兄を失いながらも、太公望呂尚を配下にして、暴君紂王の殷を倒した偉い人なのです。周王朝の初代王様。

 

②墨子が作った木製の鳶、魯般が作った雲梯って何?

第三十一回、信乃が力が衰えることなく無事に見八に勝ったとしても、古代中国の墨子が作ったという木製の鳶でもなければ、虚空を飛ぶことができまい。また同じく春秋戦国時代の魯般が作った攻城用の雲梯でもなければ、地上に降りることはできない、という文章があります。
何でしょうね、これ。

そもそも墨子とは誰でしょう。
彼は中国戦国時代の思想家で、いわゆる諸子百家の一人で、墨家(ぼっか)の開祖です。
説くところは、この時代にしては特異で、平和主義、博愛主義を唱えています。小説化、漫画化、映画化されて、墨攻という題名で発表されています。
その思想は専守防衛を貫き、そのため防衛戦に意味を見出し、土木工事、工業開発に全力を傾けました。
その中で飛鳶(ひえん)は、紀元前4世紀頃に中国の思想家・墨子が作成したのです。
木製の鳥の形をした飛行物体で、3年かけて完成させ、空に飛ばすことに成功したと韓非子や墨子に記されており、世界最古のたこの伝承として知られているんですって。
目的・用途としては、飛行性能をもちろん、遠方の監視、敵の動向を探る目的があったとされているのです。
後の時代に「紙鳶(凧)」へと発展し、さらに戦場で火器を積むことへと繋がったとか。
墨子は平和主義の兼愛を説く一方で、防衛のための技術力にも長けた、古代中国の科学技術者としての側面もあったらしいのです。

そして墨子の思想で際立っているのが、「一人を殺せば死刑なのに、なぜ百万人を殺した将軍が勲章をもらうのか」と疑問を投げ掛けていることです。まるでチャップリンの殺人狂時代の映画ではありませんか。

もう一方の、魯般の雲梯とは、中国春秋時代の名工・魯般(公輸般)が発明した、雲に届くほど高い城攻め用のはしごのことです。
敵の城壁を攻めるための強力な移動式兵器として墨子に記述されており、現代の公園遊具「うんてい」の語源となったんですって。

 

③欽明帝のころの膳臣巴堤便、富田三郎

第三十一回には知らない人ばかり出てきます。

芳流閣の上に登った信乃は、捕物名人見八を見て呟きました。

奴は、欽明帝のころの膳臣巴堤便(かしわでのはすひ)が虎を退治したほどの勇者か、鹿の角を引き裂く怪力で知られた鎌倉の富田三郎親家ほどの勇者か。

誰でしょうか。調べてみましょう。

膳巴提便さんは日本書紀に出てくる武将で、欽明天皇6年3月(545年)、百済に妻子同伴で向かいます。
浜辺で野宿をした時、子供が行方不明となってしまいました。大雪が降り、夜明けになって探すと、虎の足跡を見つけたのです。
彼は追跡して、とうとう洞窟の中に虎を見つけ、虎を殺して皮を剥いで帰って来たと言われた勇者なのです。加藤清正のご先祖かもしれません。

富田三郎親家は、鎌倉時代の人。武蔵国児玉党の人で、要は今の埼玉県の武士ですね。
1213年建保元年1213年、和田義盛が北条家打破を目指して挙兵した際に、和田義盛側に味方しましたが、敗北して親家は幕府側に捕まってしまいました。
前々から彼の馬鹿力(!?)は有名だったらしく、三代目の将軍、実朝が怪力を見たいと言い出しました。
親家は大鹿の角を2本同時に折ってみせて、実朝以下幕臣を感嘆させたということですよ。
その結果、助命されて、新しく紀伊の土地に領地まで与えられたらしいです。これ以降は鎌倉幕府に忠節を尽くしたんですって。

 

④芳流閣の高さは?

これ気になりませんか?今回2つ気になることがあって、その1つがこれなのですよ。
実は芳流閣の高さについては特にどれくらいという説明はありません。
第三十回では、城塞の物見櫓と思われる三階建ての立派な楼閣を見つけた、三十一回では、目指す楼閣も高く、三層と書いてあるだけです。
もちろん眼が眩むような高さであるはずなのですが、どうなんでしょう?

3階櫓で調べてみました。
名古屋城の西北櫓では約16メートル。

熊本城宇土櫓で約19メートル。

これだけでは大したことがなさそうですが、石垣を足すと、とんでもない高さになるのかもしれません。
大阪城や伊賀上野城の様な高石垣を加えると、恐ろしい高さになる気がします。
古河城は渡良瀬川や利根川に面していますので、何となくですが犬山城の姿がイメージが近いのではないでしょうか。


この写真なんかいかがです?屋根の張出しは狭くてとても戦えませんが、高さ、川沿い、そして川沿いに船がありますし。

まあ、でも室町時代なので、本当はこんな櫓とか屋根とかなさそうですけれどね(笑)

 

⑤芳流閣から落ちて助かるの?
私、信乃と見八の2人は、川に落ちて、どちらかが船に引き上げて、気を失った挙句に流されたと思ってたんですよ。
しかし屋根から転落して、船の上に【落ちて】いるのが分かりました。

互いに掴んだ拳を緩めず、何十尋もある屋上から落ちていった。
しかし遥かなる河の水底には入らず、ちょうど水際に係留してあった小船の中へ重なって、どうと落ちたのである。小船は大きく傾き、激しい波にざんぶと音がして水煙が上がった。船を繋いでいた綱が切れて、射られた矢の様に小船は河の中へ吐き出されていった。折しも追い風と引き潮に誘われて河を下る船は、行方知れずになってしまうのだった。

文を引用しましたが、この通り、2人は船の上に落ちたのです。
水面、川面じゃないのです、船の上、ということは、板の上じゃないの?
……死んじゃいませんか?それよりも墜落した瞬間、船がバラバラになってしまいませんか。
これが今回最大の謎でしたが、解決しませんでした(;´д`)トホホ

 

⑥惟高親王と惟仁親王の争い
第三十二回において、念玉と観得の坊さんが、争いの決着をつけるために相撲を取ることにします。
その先例として、2人の親王が皇位を巡る争いをやはり相撲で決着をつけた、という話が出てきました。
どんな先例だったのでしょうか。

文徳天皇には数人の皇子がいましたが、後継者争いに選ばれたのは、第一皇子の惟高親王と第四皇子の惟仁親王です。
ちなみに惟高親王の母は、紀氏でその父、つまり親王の祖父は紀名虎(きのなのとら)で刑部卿。。
惟仁親王の母は、藤原氏でその父は藤原良房、太政大臣の偉い人。
紀氏と藤原氏の勢力争いが勃発したんですかね。この勝負は結局、第四皇子の惟仁親王が清和天皇に即位します。

言い伝えでは惟喬、惟仁両親王の立太子を巡って、紀名虎と良房とがそれぞれ真言僧のお坊さんに加持祈祷させたんだそうなのです。
そして名虎と良房が相撲をとって勝負を決めた、また立太子争いに敗れた名虎が血を吐いて死んだ等の逸話があります。
しかし、実際には惟仁親王誕生の3年前に名虎は没しており、これらの逸話は史実ではなく、第一皇子でありながら皇位に就けなかった惟喬親王に対する同情が生んだ伝説と考えられているそうなんですって。

 

⑦具合が悪くなったらすぐに言いなさい、治らないけれど

信乃は破傷風に罹ってしまいました。
寝てる場合ではありません、すぐに言いなさいよ、まったく。
ちなみに大河ドラマべらぼうにも出てきた平賀源内は獄中死したのですが、彼の死因も破傷風なんだとか。

江戸時代、破傷風は傷口から感染し、全身の痙攣や背中の反りを引き起こす恐ろしい病気として知られていました。当時は原因不明の死病(ツグイ、牙関症とも)とされ、有効な治療法はなく、ヒ素を含む化毒丸などが用いられた記録があるんですって。
治療法は、明治時代に北里柴三郎博士が血清を開発するまではないのですよ。

急に腫れて痛がっているのは、昨日終日外にいて風に吹き晒されていましたので、破傷風にでもなったのかもしれません、とか見八が言っていますが、民間治療法も当てにならないし、治しようがない(-_-;)

ちなみに1980年公開の映画、震える舌という破傷風患者の戦いを描いた映画があるのですが、本当に恐ろしい映画です。そこら辺のホラー映画よりも怖いのです、お薦めしときます。ガクブル((((;゚Д゚))))

 

⑧中田の戦い

第三十三回、見八は破傷風の思い出を語るのですが、古河藩の人が破傷風になり、薬を芝浦で買い求めたという話が出てきます。
その人は中田の戦いで、破傷風になったとか何とか。この中田の戦いとは一体なんでしょう?

中田宿という宿が、古河城のすぐ南にあるのですが戦闘については不明でした。
しかし検索すると、以下の様な表示が出てくるのです。

「古河 中田の戦い」という名称で広く知られる特定の歴史的大規模合戦の記録は、主要な検索結果には見当たりませんでした。
しかし、茨城県古河市中田周辺(下総国)は、戦国時代において古河城(古河公方)を巡る攻防の最前線であり、関連する以下のような歴史的事象が記録されています。
享徳の乱(15世紀後半): 初代古河公方・足利成氏が鎌倉から古河に移り、上杉・幕府方と戦った時期、関宿城(現・野田市、中田の近隣)が古河城の防衛拠点(両翼)として重要視されていました。

これくらいしか分かりませんでした(´・ω・`)

 

⑨鰯鍋の示す意味とは

第三十四回、グレた房八が小文吾に絡んで、こう言います。

なぜ平等に理を尽くして公平な仲裁もせずに、引き分けたのか。
貴様と俺が一緒にいわしの鍋をつつく様な親戚になったからと言って、内緒のことには蓋をして、臭いを隠すやり方もあったろう。
この仲裁が片手落ちの件、房八は事情を知りながらも女房の兄を恐れて了承したなどと、世間の人に言われては、俺は故郷に申し訳がなく、逃げ出そうにも行く宛てもない。

このいわし鍋、原典では鰯鍋ですが、どんな意味があるのでしょう。
ちなみに検索すると、レシピが出てきます。冬の料理で美味しそう。寒い時期に作ってみますね(笑)

www.bh-recipe.jp

しかし、なぜ房八はいわしの鍋をつつく様な、などと比喩をしたのでしょう。
どうもいわし鍋とは、いわしを煮た臭いは鍋に残ってなかなか消えないところから、縁の絶ちがたい間柄をいう言葉らしいのです。

japanknowledge.com

つまり房八は、小文吾の妹のぬいちゃんをお嫁にしたので、また相撲を通じた好敵手ですので、臭いが消せないほどの深い関係であるという意味なんですね。
解決して良かった、良かった。

 

⑩銀甜瓜って?

同じく第三十四回、房八は小文吾を挑発しまくります。

小文吾、なぜ立ち合わない。相撲と違って、命懸けの勝負も拳が恐ろしいか。
図体が大きくても、葉の着いた橙か銀甜瓜(ぎんまくわ)か、いずれにしても見掛けばかりで味はない。
こんな臆病者を人がましく叩いたところで、俺の拳を汚すだけだ

橙は何となく分かりますが、銀甜瓜が分かりませんね。
いずれにしても見掛けばかりで味はないというところから、見掛け倒しということですか。

橙武者という言葉があります。
大阪夏の陣において、豊臣方の武将、岩見重太郎こと薄田兼相を揶揄した言葉です。
見掛けは立派だが実力が伴わない見掛け倒しを意味し、正月飾りの橙が食用に適さないことに例えられました。
橙と銀甜瓜、同じ意味でよろしいんでしょうかねえ。
でも写真で見ると、銀甜瓜、和メロンとも呼ぶらしく食べてみたいです(笑)

 

⑪南を向いて涼しい?

妙真さんは、小文吾と談合するために古那屋にやってきました。 
房八から離縁させられたおぬいと大八を古那屋に置くため、ですが、話が長引きそうなため、こんなことを言います。

駕籠かきの方々、時刻は亥中(22時)を過ぎていますが、私は今日お暇します。
ここの向かいの垣根の辺りは南を向いて涼しいでしょう。しばらくそこで待っていて下さい

不思議じゃありません?
南を向くと、なぜ涼しいのだろう?
駕籠かきさん達、待つのも暑くて大変なはずですよ(笑)

南風が通ると寒いのかな、えーっ、そんなはずはないのですが。

 

おつきあい、ありがとうございます。

 

今回はこの辺りで、でわ。