小文吾が粥を再び温めて、信乃に食べる様に勧めていると、高い声を張り上げて旅籠に入って来る者がいた。返事もせずに立ち上がり、座敷の障子を開いて、店先に走り出て来客を見た。
誰かと思えば、他ならぬ鎌倉の修験者、念玉である。
左手には大きな法螺貝を持ち、右手には柿の渋で染めた扇で胸の辺りを扇いでいる。店先の行灯の近くに座りながら、小文吾を見て微笑んだ。
「関取、今帰りましたぞ。とにかく昨夜の神輿洗いは、聞きしに勝る大賑わいであった。しかし祭りの終わりのころ、あちこちの荒くれどもの喧嘩は殺風景であった。どこの港の若者たちの心は建速進雄(タケハヤスサノオ)、すなわち須佐之男命(スサノオミコト)のご神慮の様になかなか理解しがたいものだ。今朝帰ろうと思ったが、浜辺は夏を忘れるくらいに涼しくて、蚤も蚊もいなかった。特に珍しい塩焼きなどの肴は、この辛い世の中を生きていくのには見逃しがたく、今日もあそこで過ごしてしまった」
念玉は小文吾の葛藤などを知らず、非常に饒舌であった。
「以前にはあなた様の力を借りて、訴訟に勝つことができた。いや心に掛かっていた雲がまったく晴れたので、ことのついでにこの辺りの旧跡、昔の下総国府のあった市川真間の国府台(こうのだい)の辺りまで余さず見ようと思いましてな、長逗留になりそうだが、明日か明後日には鎌倉に帰るつもりなのだ。いましばらくの間厄介になる」
と素直に言われてしまい、小文吾は泊まるのをは見合わせて欲しいとは思ったが、出て行けとは言えなかった。困り果ててしばらく考えていたが、
「それは名残惜しいことです。ここは心ばかりのおもてなしをすべきところなのですが、今宵はいかんせん、この土地の習いで女子供たちは昨日から藪入り、つまりお休みをいただいておりますので、一人もおりません。父親でさえも人に誘われて近くの里に行ってしまったので、留守はただ私だけ。台所の仕事は得意ではありませんが、夕餉の膳をご用意いたしましょう。何かご所望はございますか」
と聞くと、念玉は首を振って、
「いや、今、外で飯も酒も食べてきたので、たとえいろいろ美味なる食事をご用意いただいても、明日まで腹に入る余地もない。それより」
念玉は疲れた様子を見せた。
「いつもの部屋に客はいないのだろう。蚊帳をお貸し下され。部屋に行って寝るとしよう。では」
と言って法螺貝を支えにして、声を出して立とうとするところを小文吾は引き止めた。
「行燈を置いておりませんので、奥の部屋はまだ暗いのです。灯りを付けましょう。お待ち下さい」
そう言いながら、貝をじっと見つめて、
「それは珍しいほど大きな貝ですね。どこでお求めになられたのですか」
尋ねられた念玉は右手に貝を持ち直した。
「これはな、先ほど浜辺にあった人の家にあったので、ちっとの酒代と交換したのだ。水を入れれば一升(約1.8リットル)あまり、二升も入るかもしれん。これを見てご覧なさい」
と差し出すので、小文吾はそのまま受け取って、貝を隅から隅まで眺めてみた。
「本当に大きな法螺貝ですねえ。浜辺近くに住んでいる私でさえ、こんなに立派なものは見たことがありません。ものは、それを好む人のところに集まると申します。法螺貝であればやはり修験者どののお眼に留まるのでしょう」
と微笑むと念玉も笑い、小文吾の傍らを見て、
「あそこの壁の下にあるのは、尺八の笛ではないか。あなた様は笛をお好みなのか。私の見間違いではないはずだが」
指を差すと、小文吾も目を凝らしてその方向を見た。
「おっしゃる通り尺八です。私は音曲を嗜みませんが、近頃侠者と呼ばれる者は印籠や一節切の様な短い笛を腰に着けない者は珍しいと言われるくらいだったのです。今はもう廃れてしまいましたが。あれは先日誰かが置き忘れたものですよ」
説明の間にも念玉は膝を進めて、尺八に手を伸ばしていた。袖で尺八を拭うと、唇をつけるべき歌口を湿らせてからぼろぼろと吹いて試してみるのだった。
「これは大変良い尺八ではないか。持ち主が不明だそうだが、あなた様に申上げよう。今宵一晩どうか貸して欲しい。寝るより外にすることもない旅の宿とはいえ、宵のうちから蚊帳に入って蚤の餌になるのは、あんまりに無情だ。しかも今宵は庚申、寝ないで庚申待ちをしようか。下手ではあるが、吹いてみることによって私自身の退屈を慰めるにはふさわしい道具である。吹いて遊びながら、静かに月を待つとしよう。さあさあ」
と言いながら、笛を持って立ち上がった。
小文吾は、
「とにかくお好きのままにお過ごし下さい。私にはその尺八は必要ありませんので」
と返答する。急いで明かりを灯した行燈を持って、念玉を離れ座敷に案内した。また預かっていた荷物を入れた行李を渡してから、店先に戻ると思わずため息を吐かずにいられない。
内心に思ったことは、
「この困った状況の下で、あの修験者の方に今宵泊っていただくのはどうにも後ろめたい。しかしだからと言って、今更出て行っていただく方法もない。理由もなく強引に言い訳して、他の宿に移ってもらったとしても、疑われるだけだ。あの方が尺八を吹いて、夜の月を待とうと言われたのは、何かお考えがあってのことだろうか。悪気はないだろうが、秘密を知られれてしまえば、きっと私の敵になる。その時は刺し殺してでも口を塞がねばならない」
追いつめられた小文吾は、親と結んだこよりのことを忘れて、物騒なことすら考えてしまうのである。
「いやそれは臨機応変に応じて、とにもかくにも対応しよう。どうしようもないのが、病床に伏せった奥の座敷の人のことだ。例え病気が軽くて命に問題がなかったとしても、藁塚で新織帆大夫に約束した期日は明日までだ、言い逃れして時間を稼ぐなどできそうもない、まったく手詰まりの難題になってしまった」
小文吾はぼやき続けた。
「そういえば、あの時に渡された人相書が気がかりだ。先ほどは急いでいたから、ただ見ただけだ。もう一度よく見てみよう」
しかし懐に手を入れてみると、
「これはどうしたことか」
左右の袂を探り、襟を開いて振ってみても、鼻紙さえ出てこない。
「さては道で落としてしまったのか。夏は着物が薄いし、黄昏時はとても急いでいたから。走って帰って来たあの場所から、ここまではそんなに遠くないが、我ながらとんでもない不覚だ。本来必要がないものだ。惜しむものではないが、もし路上で人に拾われて、訴えられてでもしまうと、疑いがますます私に掛けられてしまう。門の中に落ちてはいないだろうか」
と周辺を隈なく探してみるが、一向に人相書は出てこなかった。思わず法螺貝を踏みそうになって、転びそうになる。
「これはどうしたことか」
と拾い上げてみた。法螺貝を見てから、奥の座敷を見つめて、
「不覚なことよ、旅の修験者殿は、尺八の笛を気に入ったあげく、自分の法螺貝をそのまま忘れてしまったのだ」
呆れながら小文吾は考える。
「たとえばこの法螺貝は、海の中にいる。生命があった時には動くだけで、音を出したりはしない。そして中身が亡くなると、殻だけを残して死んだ生き物の残骸とはなるが、吹いてみればその音は大分離れたところまで聞こえる様になる。人生もまたこれと一緒だ。住むところを失って諸国を放浪する者は、魚介類が水から離れてしまい、帰る場所を喪ってしまったことと同じなのだ。まして罪なき者が零落して、隠れようとしても他人に見つかってしまうということは、普段音のない貝が吹かれることによって、その音色が響いて居場所が分かってしまうことと一緒だ。そして、罪なき者を罰するということは、道理の逆を行き、道理に反するということ。また罪がないのに罪を被ってしまうということは、権力に屈したということであり、これがこの世の習いなのである」
また深い息を吐く。
「祈ってみてもなかなか霊験のないこの世においては、空しく物思いに沈みながら、独り空を見つめる山伏が修行をしても、すべての願いが適うという吉野の名も今となっては名ばかり。足を踏み入れることすら難しい道理の順逆の峰々には、晴れていくべき雲もなく、ただ迷いだけがある。私はどうしたら良いのか」
手にしていた法螺貝を投げ捨てて、眼を見開いた。心配ごとに集中して考えるのだが、言葉に出せないほど苦しい胸に当てる手のやり場もなく、恨めしさだけが募った。
このままじっとしている訳にもいかないので、人相書を再び探そうと、慌ただしく蝋燭を灯して外に出ようとすると、
「皆、早く来い」
と外から騒がしく呼び掛ける声がして、くぐり戸をはたと押し開き、入って来る者たちがいた。
「関取はおるか」
と顔を差し入れたのは、塩浜の鹹四郎を先頭に、板扱均太(いたごききんた)、牛根孟六(うしねもうろく)などと呼ばれるここの土地では名だたるならず者三人が顔を揃えて店先の板の間に押し寄せたのである。
小文吾はそれを見て、蝋燭を振り消した。
「これはまた立派な入り方だ」
と皮肉を言いながら、
「三人揃って何ごとだ。静かにしてくれ。床の板が抜けてしまう」
小文吾が言い終わらぬうちから、鹹四郎は手拭いをひらりと肩に投げ掛け、
「関取、今宵は少しばかり、ものを申し上げようと思って、俺たち三尊仏が台座を離れて来迎して来たのだ。まずはきちんと拝んだらどうだ」
と言うと、均太はそばから、
「鹹四郎、戯言はやめろ。今日は一番、夜稽古を三人掛かりでやろうじゃないか」
鹹四郎を止めてきっと小文吾を睨むと、孟六もまた前に進み出た。
「関取、こうして皆で連れ立ってやって来たのは、他でもない。長い間、お前の弟子としてやってきたが、元から技もあり、地力もある俺たちは、その辺の辻相撲では後れを取ったことがない。犬田の小文吾は本当に良い弟子を取ったものだと他人が褒めたりするから、自然とお前の鼻まで高くしてやっただろう。だが今日一日で見限ったわ」
憎々しげに言う。
「とにかくこの世は逆さまなもの。門弟の俺たちから師匠を破門してやる。その理由を言ってやろう。この三人は弟子の名代、今からこの葛飾には、お前の弟子は一人もいない。しっかりと心得るが良い。明日からはなあ、頭を高くして口を利くなよ。とぼけて忘れることも許さんぞ」
三人の弟子の総代は一斉に騒ぎ立て、あぐらを掻く。大きな声で喚きながら、寄って来る蚊を打ち、膝を叩くのである。
それを聞いた小文吾は嘲笑い、
「騒がしい奴らだ、静かにできないのか。私は子供の時から相撲が好きだったが、関取などと呼ばれてもそれを生業にしているのではない。単に田舎の素人芸、弟子がいてもいなくても、別に問題はない。理由さえ筋道が立つなら、望みに任せて破門してやろう。訳を言え、訳を。どうしたと言うのだ」
小文吾の問いに、三人は座り直して、
「言わずと知れたことながら、昨日の夕べ、浜辺での悶着をお前が一人で裁いたこと、見事な侠者だと思っていたのに、その後、栞崎で山林の房八に仕返しされた体たらく、脇道から見ていた者たちの風聞は千里を走るのことわざ通り、誰も知らない者はいない。泥の脛を揚げた山林に踏まれた師匠など、弟子の面汚し、だから破門してやる。それを悔しいとは思わんのか。相手はまさしく妹婿、借金でもあったのか、ひどい仕打ちをされても、まだおめおめと猫の糞でも踏んだ様な顔をしやがって。踏まれて咲くのは、道端の昼顔ぐらいなものだ」
尚も罵倒が続く。
「お前は門の辺りをうろうろする腰抜けの犬だ。犬田だ。八幡様の取組みも、行司の上げた軍配ならぬ団扇はきっと怪我の功名。まさかの時には山林に手も足も出ない薬缶の茹で蛸、どうしようもない野郎だ。真っ赤になっても、恥知らずの情けない奴だ。金玉を持っているなら、なぜ打たなかった、突かなかった。できなかったのなら、舌でも噛んで死んでしまえ」
だみ声を高く張り上げて手振りを交えながら、異口同音に火を焚きつけるのである。
しかし小文吾は騒ぎ立てる様子もなく、
「ああ、またしても騒がしいな、お前たちは。大空を羽ばたく大鵬の志を知らずに、ただ群れてさえずるだけの小雀にけしかけられる様な私ではない。栞崎で房八の相手にならなかったのは親のため、私のため、そして妹夫婦のため。負けるが勝ちとも言うだろう。道理を知らない愚か者を避けて通すということは恥ではない」
小文吾は一喝した。
「そう考えずに臆病になったとなったと思う者がいれば、勝手に思わせておけば良い、俺には痛いところもやましいところもない。破門とやらの理由がそれなら、もはや要はない。さっさと出て行け」
と追い立てると、三人は同時に身を起こして、
「行けと言われなくても出て行ってやる。師弟の縁が切れても、この里では面目が立つまい。人の口には戸は立てられず、噂が広まるのを止めることはできないのだ。縁が切れて他人になった証拠に、消せない様な手形でも打ってやろう」
と言うなり、鹹四郎が拳を閃かした。
その瞬間、小文吾は足をすくって鹹四郎を転がした。続いて襲い掛かってきた孟六と均太の腕を捩じ上げて、もがいて立ち上がろうとする鹹四郎の背中をしっかと踏みつけてやる。
腕を取られた二人は、つま先立ちのまま、顔をしかめて空を仰ぐしかない。
「痛い、痛い、腕が抜けない、放せ」
鹹四郎もそんな二人と一緒に弱音を吐き、大の字のまま眼を大きく見開いて、
「苦しい、我慢できない。目ん玉が飛び出したらどうしよう。ああっ、背骨が折れる」
と叫ぶ始末である。自分の名前にある通り塩辛声で叫び、床の敷板を舐める様に喘ぐ。
小文吾は、
「そうであろう」
と懲らしめたまま、しかし手を緩めず、
「お前たち骨に染みたか。怒りを我慢するのは親の戒めであり、お前たちの拳を止めただけで、私から手を出したのではないぞ。これまでのよしみで、一度だけは許す。さっさと行け」
孟六、均太を押し出して、二人を一つにまとめて、戸の外側に押し出した。外に突き出すと、ならず者たちは三間(5.4メートル)あまりよろよろと走り、とうとう転ぶのだった。
次に鹹四郎を引き起こして、そのうなじを掴んだまま外に落とした。鹹四郎は糸がよれた様につま先歩きをしてから、先ほどの二人と同じ場所に倒れ込んでいった。
三人はしばらく起き上がれなかったが、狐が何回も振り返る様に小文吾を見てから、猫が背を高くする様にしてようやく立ち上がろうとする。それぞれ自分で脈を計り、腰を撫でてさすり、膝に唾を塗って、苦痛に口を歪める。
眉をひそめて、同じ様に息を吐き、互いに手を取り合って、よっと声を合せてどうにか立ち上がった。
鹹四郎は、籠の中のきりぎりすが鳴く様に舌を鳴らした。
「均太、孟六、まだ痛いか。男を磨こうとすれば、こんな罰ばかり当たってちっとも得がない。間が悪いったらありはしない」
と呟くと、二人も共にため息を吐き、
「運勢の巡りあわせが良くないから、常に七難八苦がこの世の厄となっているんだ。力で負けても口で勝ってやる。関取に言いたいことはまだあるが、言わないでおくのが言うに増すとかいうだろう。洒落て升飲みの酒をこれから二斤(1200グラム)ばかり飲んで機嫌を直そうぜ。弱ってたまるか」
こんな風に慰め合っていたが、均太は腰の辺りに手をやったかと思うと、急に慌ててきょろきょろと見回し、
「待て待て、金を落とした」
と言った。しかしすぐに孟六が足を上げて、地面を舐める様に見てからこう言った。
「ここにある」
銭の穴に紐を通した二百文を拾い上げて、均太に渡した。
「では行こう」
均太が先導して行く。腰を反らしたり、縮めたりして、忙しく連れ立って、漆黒の夜空の中、三輪の杉の葉を目印にした馴染みの居酒屋を目指して行くのだ。
やがて足音は絶えて、静かになった。
【三奴辟易、妙真来訪】

ちぎっては投げ、ちぎっては投げ、三奴を軽々とやっつける小文吾。
そこへやって来たのは、戸山さんこと妙真姐さん(未亡人です)
小文吾は行燈を戸口に向けて、外の気配を窺い、誰もいないことを確かめた。そして門の扉を締めてから、心棒を通した。
夜はそろそろ五つの拍子木が聞こえてくるころ(午後20時ごろ)になった。今晩はいつもより早く時が過ぎる気がする。
しばらく考えていたが、独りうなづき、
「最近の夜は短い。今日が暮れたと思ったら、馬鹿者どもに関わって、無駄な時間を過ごしてしまった。奴らの騒々しい大きな声はきっと奥の部屋にまで聞こえてしまっただろう。思えばあちらこちらにも注意をしなくてはならない」
独り言を言いながら、思案は果てなかった。片膝を抱いて片胡坐のまま、父親のことに考えはつくづくと至ると妙に悲しくなった。
「今ごろは、この夜をどうしてお過ごしだろうか。暗いところに閉じ込められて、眠れぬままに蚊にも食われているのだろう。とても痛ましいことではあるが、今宵一晩お耐えになって下さい。田畑を売り、家を売り、家財でも処分して積んで、それでも足らなければ私が父の身代わりになってでも、お救いするとしよう」
考えは、次に奥にいる病人のことに及ぶ。
「なかなかお救いするのが難しいのが、奥の座敷にいるあの人のことだ、破傷風の妙薬は亡き伯父からの伝授されたも方法がある。しかし簡単には手に入らない。鮮血が必要だから、私の腿に傷をつけて血を絞ることができるが、それに合わせる女子の生血、それがない。私の身体だけ血を取っても仕方がない。あの人を船に乗せて、今宵密かに逃がせようか。いやいや、里の出入り口には、水陸共に古河殿の警固の兵がいるはずだ。切り抜けて脱出するとしても、それでは父の命が危ない。ああ、どうしてお天道様は誠実なお人をこの様に照らして下さらないのか。犬塚殿は孝子であり、私の親は義士である。私もさすがに孝と義を一端を心得ているつもりだが、善に味方しては幸福などはなく、義に味方しても災いしかない」
しばらく小文吾は嘆き続けた。
「しかしながら恨んでなどはいない。世の中に幸があるかないかは、必ずしもその人の善悪で決まるものではないのだ。それを天命と知ったからには、例え命を喪うことになろうとも志を変えてはいけない。とはいえ」
またため息を吐いた。
「そうは言っても、明け方までに何か計略を考えつかなくては、すべてが絵に描いた餅になってしまう。古河の人、犬飼殿がいればいろいろ相談できるのに、いないとは困ったものだ。いや、いればそれはそれで困ったことになるのか。さてどうするか」
自分の胸に問い、自分で胸に答えてみても、何も得るものはなく、数々の憂いは余りあるものとなっていた。
ふと尺八の音色が聞こえてきた。
月は有明、聞こえてきたのは鹿の鳴き声ではなく、尺八の笛の音。笛の調べは風情があり、奏者の技量もなかなかのものである。
今宵一晩の思案も一節切の笛の音も、明日は自分の身上、友の身上に大きく関わって来る。心はすり減り、良い知恵が浮かばないことにうち塞がれていく。この心の乱れは、いつしか解決するのだろうか。
「ああ、何と無心な笛の音か。あの修験者殿は法螺貝を笛に取り換えて今吹いているのだ。離れ座敷も近いから、隠しようもなく音色が聞こえてくる。しかし慰めてくれるどころか、却って心に憂いをもたらす様な気がする。この浮世とは、本当にままならないものだ」
この様に独り小文吾が考え込んでいると、離れの座敷にいた信乃はようやく身を起こして、かすかな灯火に向かって、これから先のことについて考えていた。
「はかなく露の様な旅の草枕、恩義のある方々を巻添えにすることは、私の本意ではない。先ほど犬田殿が心配そうな顔色をしていたのが気に掛かる。それだけではない、主の文五兵衛殿は村長に呼び出されて、真夜中を過ぎてもいまだお帰りにならない。待ち人でもない誰かが大勢やって来て、大きく喚いていたが、あの言い様、すべて私のことではないか。村雨の刀が無くなってから、いよいよ日陰の花の様に萎むばかりの病の身の上。私の最期は見えている。ことがこれ以上難儀になってしまうのであれば、自害してしまおう。誠意を見せてくれた親子を苦しめて良いはずがない」
信乃の決意は悲愴であった。
「この身など惜しくはない命だが、栗橋で袂を分けた額蔵、荘助のその後のことが知りたい。浜路もまた不憫だ。玉椿の八千代にと末永く誓い、私を頼りにしてくれていた女心は、どれほど恨んでいるだろうか、さぞかし嘆いていることだろう。二人だけではなく、今まで助けになってくれた犬飼殿、犬田殿は、私の死を不覚にも焦った短慮者と後でお叱りにもなるかもしれない。虎は死して皮を残し、人は死して名を残すと言う。死すべき時に死ななければ、世に疎まれて恥を晒すだけだ。聞こえてくるあの尺八は、私をあの世にお導きいただく阿弥陀如来の慈悲の歌、あるいは芸能の菩薩が奏でた音楽か。まだ少し様子を見聞きして、いよいよ最期の時が来れば刃を取ろう、それくらいの力はあるはずだ」
信乃の眼に光が灯る。
「ようやく覚悟を決めた。心は清き水の流れの様に澱みはないが、悔いはただ一つ、それは、この有様では面目なくて亡き父の尊い御霊に合わせる顔がないということだ。父の御遺言をを無駄にしたわけではないが、疎かな過ちから、野心を持った間者と疑われて、身は落人となり果ててしまった。このまま非業の死を遂げれば、後々まで父祖の名を汚すことになってしまう。親不孝の罪は、九世生まれ変わったとしても許されるものではない。ああ、これだけが今生の恨みだ。これも宿世の因果の報いと理解するのが仏の教えであり、迷いは煩悩から生まれる。執着することから離れて、ただ自然に任せれば、生死は天命なのだ。父上、どうかお許し下さい」
しかし言いたくても言うことができなかった。
岩瀬の滝の水が砕け散る様に、我が身が砕け散っても、この世に生き長らえるのが辛く、心の内はただ張り裂けんばかりである。心の痛みは繰り返し去来する。この上なく切迫した状況にあるこの若武者が抱える無念を、誰かに知って欲しい、誰か知ってくれないだろうか、と、信乃は切ない気持ちで尺八の音色を聞いていた。
夜も更けて、時刻は五ツ半(夜23時ごろ)の低い月が出ている。その月明かりの代わりに、筒提灯の明かりを駕籠のすだれに照らして、外から駕籠と一緒に訪れる者がいた。
年のころは四十路あまり、どうやら未亡人である。黒髪を惜し気もなく男の様に短く切り、元結留めのかんざしも、地味な無地の薄衣を羽織り、白帷子を下に着た姿では目立たなかった。前結びの繻子の帯に結び添えた唐組帯は、柳腰に山鳥の雄の長い尾の様であった。
見上げて門に近づくと、
「ごめん下さい」
と声を掛けて、潜り戸を開いた。
ずっと悩んでいた小文吾は思わず頭を上げて、相手をじっと見つめた。
「これは突然のお越しですね、戸山の妙真様ではありませんか。夜中過ぎにただお一人でいらしたのですか。何ごとかございましたか」
そう尋ねると、妙真は微笑んでうなづき、
「いえ、私だけではありません。沼藺(ぬい)と大八を連れて参りましたが、途中で日が暮れると思いましたので、二人は駕籠に乗せました。私は持病の貧血がありますので、駕籠に担がれて揺られるより、歩いて行く方が夜道は涼しくて具合が良いのですよ。良い話で来た訳ではありませんので、他には誰も連れて参りませんでした。家族同様の水入らずではありますが、突然押し掛けて申し訳ありません、それでも時間を外して参りました。大戸を開けて下さいませんか」
親し気に、しかし真剣に言われて、小文吾は、
「今宵はどうして、折りが悪いのに、来客が多過ぎるのか」
と憂鬱に思ったが、あからさまに断る訳にもいかず、さりげなくもてなすことにした。
「それはそれは良く参られました。ではどうぞ、こちらへ」
上座に座ることを勧めてから、中から大戸を押し開くと、駕籠かきたちは杖を突き立てながら、土間に入ってきた。
駕籠かきたちは玄関まで駕籠を運び入れ、簾をひらりと上げた。
中を見れば、妹の沼藺が子供の大八を膝に乗せたまま、すやすやと眠っていた。沼藺は夏向きの単衣を着ており、緋色の襦袢、帯は絹織りで色は黒褐色で交野まがいを片結びにしている。上等な鼈甲の玳瑁(たいまい)でできた櫛笄を髪に差していた。田舎じみてはおらず、鎌倉当たりの流行りなのだろう。
しかし派手に見えても、実年齢は十九歳だがそれよりは老けて見える。夜も更け、子持ちの夜の女鹿とは、昨年の秋より前からの再会だった。
小文吾には、妹には何か心痛の顔色がある様に思えた。
目覚めた沼藺が駕籠から出ようとすると、揺り動かされて大八が泣き出した。赤ん坊を抱き直し、静かに背中を叩きながら、
「兄上、この炎暑にもお変わりはありませんか。父上もお健やかでいらっしゃいますか」
と言って、頭を下げる。しかしやはりどこか具合が悪そうで、はたと落としたかんざしが不吉に見えた。沼藺は涙を見せまいとして、背中を向け、暗がりの中、姑の背を盾にしてかんざしを拾った。
その時、戸山の妙真は駕籠かきたちの方を向いて、
「駕籠かきの方々、時刻は亥中(22時)を過ぎていますが、私は今日お暇します。ここの向かいの垣根の辺りは南を向いて涼しいでしょう。しばらくそこで待っていて下さい」
と言うと、駕籠かきたちは了承して、駕籠を家の外に運び出すと大戸を開いて出て行った。外から潜り戸が閉まる音がした。
しばらくしてから妙真は小文吾に向かって、
「兄上、お父上はすでにお休みですか。耐えがたいほど暑いというのに、お元気でいらっしゃる様で。去年までは、嫁の沼藺も孫の大八も神輿洗いのお祭りに行かせましたが、昨日は何やらいろいろ用事が多くて、参ることができませんでした。残念です。下女たちはいないのですか」
妙真が尋ねる言葉は華やかではあったが、小文吾は雨夜の月の様に何か晴れない疑念を持って眉をひそめた。
「いえ、父上は人に誘われまして、市川の真間へ出掛けましてまだ帰ってきておりません。女子供たちには休みを与えました。奥の部屋には修験者の客だけがいます。折悪くて人出が足らず、満足におもてなしが出来ず申し訳ありません。納戸はずっと閉めていて風も入りませんので、しばらくの間ここで話しましょう」
小文吾は核心に切り込もうとした。
「それにしても、ご婦人が夜中にも関わらず、しかも沼藺を連れてお出でになったのは、何かよほどのことがあったのではありませんか」
聞き返された妙真は、襟を少し緩めると小膝を進めて前に出た。
「実は今言われた通り、申し上げにくいことなのですが」
意を決した妙真が話し出す。
「身分が高い方も低い者も、男と女の間のことというものは、親の思う様にはならないものです。今までずっと夫婦の仲睦まじく、孫さえ早くに恵まれて、この母は老いらくの幸せを得たものとご近所の方々にも羨ましく思われておりましたのに、今は恥ずかしいことに、夫婦の口喧嘩のもつれから、憎からぬ思っていた嫁を離別することになってしまったのです。そのことを申し上げるため、古那屋様に憎まれに来た私の心苦しさ、神ならず誰に分かっていただけるでしょうか」
思い掛けない話に小文吾は頭が追いついていけなかった。
「元はと言えば、去る日の八幡の相撲で、息子の房八があなた様に負けて帰って来たことからなのです。とかく機嫌が悪く、しかし相手はお沼藺の兄上様。慰めようがなくて沼藺も困っておりましたら、一日二日と経つ間に、何を思ったか房八は、もう生涯相撲を取らないとか言い出しまして、前髪を剃り落としてしまいました。その上、昨夜、急に浜辺で起こった悶着を解決しなさったあなた様の仲裁にも細かい配慮があるはずなのに、具合の悪いことに根は腹立ちの治まらない性格ですから、ひどく怒り出しました。女房をを去らせて、この出入りの決着に白黒着けるとか言い出したのです。母が諫めても聞かない短慮です。仲人様は去年の秋、お亡くなりになり、今更どなたかに相談できるものでもなく。そうかと申して他人に沼藺を送らせて、理由も訳も言わずに済むこともできません。せめて母である私が、母親の役目にはとても足りていませんが、一緒に参りました」
妙真が涙声になる。
「仲の良い二人の恋仲を裂くのは、丈夫な葛(くず)の布を引き裂く様なもの、縫い合わされぬ乱れ糸の様に、浮世の義理とは苦しきもので、男には勝てない女子の甲斐のなさも苦しいのです。可愛いお沼藺は、空蝉が鳴く様に泣くしか他に手立てがありません。この娘の心の誠実さを知りながら、私は他に何もできませんでした。せめてもの慰めにこちらに送ろうとして、駕籠に乗るのを助けた時、大八が跡を追って来て泣きました。母と子の別れを虫が知らせてたのか、当たり前のことでしょう」
声が震え、涙を流しながら続けた。
「すがろうとする袂を振り払って、出て行くことなどはできず、出て行かすこともできません。四つといえ、冬の師走生まれの年弱な子。まだ乳離れもできず、大八はまだ二葉の小さな草で、母の森による守りがなくては、この先どうして生きていくことができましょうか。やむを得ず一緒に駕籠に乗せてみれば、とても喜び、お爺様の下に行って、良い着物を見せたい、お土産をいただきたい、などと夢中で小躍りする幼児の心は、無邪気なお坊様か子供の神様の様。こちらの門に来るまで、母の膝を椅子代わりに熟睡し、夢の浮橋が壊れてしまう様な父と母の別れを知らないことが、悲しみの一つ。涙の種を特に蒔かなくても、心配ごとがどんどん出て来て、思いは草の様に生えて乱れてしまいます。ああ、愚痴は女子の回る回る糸車、糸車を繰返しまた返しても、お沼藺を返したくないのですが、この離別の訳、お父上にとにもかくにもお取りなしいただき、申し上げていただけませんでしょうか」
と言いながら涙する姑の言葉に、露の涙を添えた沼藺もひたすらに泣き沈んでいた。
聞いていた小文吾はつくづくとため息を吐き、
「母上の詳しいご口上、良く分かりました。沼藺よ、お前もまた思うこと、言いたいことがあれば言え、聞こう。母上がおっしゃったことの他に、もっと深い意味はないのか。どうなのだ」
尋ねられて、ようやく沼藺は頭を上げて、
「女子の身には五障、三従とやらの掟があると聞きます。女性は梵天王、帝釈天、魔王、転輪聖王、仏陀にはなれず、未婚時は父、結婚後は夫、夫死後は子に従うものということです。夫には理不尽なことがあっても逆らわず、この四年もの間、声を荒げて叱られたこともなく、心を込めて家の中を波風立てずに舵を取り、朝な夕なに船の日記の様に記録を取りました。家業や家事も、余人にはお任せすることなく暇もないほどに働き、川沿いの家に住むことも馴れ、門柱が朽ち果てても、死なない限りは家を出まい、いえ出されることもないと思っていました。それなのに、飽きられたり飽きたりもしていないというのに、家を出ろと言われて戻らなくてはいけなくなりました。実家の敷居がこんなに高くなってしまったとは。ただ願うのは」
ひと際大きな涙が頬を流れていく。
「両家の仲が和らいで、胸騒ぎのする様なこの暗雲が流れて、元通りの山の峰にでも落ち着いてくれれば、涙の雨に掻き暮れて泣き惑うこともなくなり、私の袖も乾くことでしょう。私は打たれても傷つけられ、幾つもの苦しみを受けようとも、恥とも思いませんし、恨みもしません。気品を持って両家の修復にご尽力いただけるのであれば、十日間飢え渇いた後に食糧を得て千年の命を延ばすことよりも、これに勝る喜びがありません」
こう言うと涙をぽろぽろとこぼし、膝に抱いた子の袖すらも濡らすのだった。片手は赤ん坊のために使えず、胸の苦しみを取り除くことはできないのだ。
その時、小文吾は組んでいた手を解いて、険しい顔になった。行燈の明かり越しに妙真をきっと見て、
「義母上、離縁の話は大体分かりましたが、今一つここ難題があります。沼藺は父の娘、私が勝手に房八に嫁がせたのではありません。またこの家は父の家です。親が不在中に、離縁のお話を勝手に承れば、道理に背くことになります。まして大八は幼いとも男子、離縁された女親について来るべきではありません。親父は今宵帰って来るかどうか分からないですし、明日も明後日も出掛けたままかどうか、お帰りの日時が定かではありません。留守番は私ですので、妹であっても一晩と言えど泊めることはできないのです。今宵はこのまま帰って、父のいる日にまた出直して来て下さい。離縁のことは私が知ることではない」
と語気を荒げて立ち上がろうとすると、妙真は兄の袂を引き止めて、
「兄上、それは言葉が厳し過ぎます。気をお静めになってお聞き下さい」
小文吾を座らせて、鼻をかんでから、
「姑と嫁の仲が良いということは世界の不思議、と人は言いますが、お沼藺はすべて真心を持って房八に接し、いやそれ以上に私に孝行して下さいます。また私は房八よりも嫁を可愛がっております。それをいつまでも外に置いておくことができますか」
妙真は激しい口調で続けた。
「離縁というものは男の意地、一旦立ててやりさえすれば、後でまた収まる方法もあるかもしれません。もしお父上がいらっしゃらないとしても、ここはお父上のお家ではありませんか。お父上のお家に、その娘を連れて来たのであれば、お留守役のあなたがお受け取りいただくのが道理でございましょう。また大八はまだ幼い童、左の拳が普通の人と違って、物を取ることができません。孫の身体が不自由だから、もてあまして母と一緒に寄越したとお思いかもしれませんが、そうではありません。片輪の孫こそ可愛くて、それこそ本当に愛しいものです。去って行く母と一緒に連れて行かせたのは、子供にほだされて、房八の荒ぶる心が静められないか、孫と一緒に嫁をも呼び返すつもりにならないか、と思ったからなのです。髪飾りの花か掌中の宝石か、一日たりともそばから離さないたった一人の孫を、ここに置いておいてこの婆独り、別れてどこへ帰るというのですか」
祖母は告白を続ける。
「拳のことはともかく、年齢の割にはませて知恵もあり、背丈も伸びて、世の中の子の六つ七つくらいの童にも劣りません。しかし心ない里の子供があだなを付けて、大八と呼ぶから、祖父の文五兵衛殿に命名していただいた真の名前を誰もが呼ばなくなり、家族の者までがあだなを呼び慣れてしまいました。孫のあだなの大八は、本来車のことで、手が不自由な片輪の意味の謎かけであると後で気づきました。嫌になって呼びたくないと思うものの、口癖になってしまいました。直らないのは、その大八という名前が名詮自性、手の不自由な孫の本質を意味しています。拳が人並みになれと願を掛けて、医者に掛かり、加持祈祷を行い、神仏への願いも早や四年になります」
孫のことを吐露した祖母の頬を涙が流れていった。
「この様に言う必要のないことまで長々と申し上げたのは、私の心の誠に迷いがないことを知って欲しいからです。それでも疑って、大八を泊めないのであれば、この子は旅人です。宿代を出せば、渡世の決まり、宿を貸して下さい、犬田殿。一人旅ではございません。しかも母と子の同行二人、これでも断わりなさいますか」
と言い、堂々と淀みなく語るその弁舌は、心の憂いに濁らず澄まず、すらすらと流れた。その口調は、やはり市川の船頭である房八の母であった。
小文吾は信乃のことが気掛かりだった。今宵に限り、差し迫った最大の難題が彼のことであり、頭を悩ませていたのだ。
「いくら妹といってもここに泊めて、秘密を知られてしまえば困ったことになる。何とか言い含めて家に帰らそう」
と初めから思っていたが、今、妙真が理屈で説明しても負けずに逆に冷笑して、
「ずいぶんと賢しいことをおっしゃいましたねえ。旅籠屋のことですので、旅人として宿を借りたいということですが、こんな夜更けのことですので、部屋がもう空いていません。泊められない客を断るということは、良くあることです」
思いつきで小文吾はいろいろと言ってみた。
「こんな風に言えば大八はお婆様と一緒に市川に戻して、沼藺だけを泊めろと言われるかもしれません。妹は今、親の家と言って戻って来ましたが、離縁状を持っていないではありませんか。離縁状を持っていないのであれば、これは私的な逗留に過ぎません。例え兄妹であっても、男と女には違いがあります。父のいない留守の家にうら若い妹を泊めて夜を明かすのは、瓜田の履、人に疑われるような紛らわしい行動は避けるべきであって、それは兄である私も後ろめたいもの。曲げて今宵は連れ帰っていただき、離縁状を持たせてからまた来て下さい」
しかし言い終わらぬうちから妙真はほほと笑って、
「さてはあなたは、離縁状欲しさにいろいろとお断っていたのですか。分からないお人ですね。一文不通の無学な男であっても、妻と別れる時に離縁状を持たせない人はいませんよ。それを出さなかったのは私の情け。出してしまえば、再び二人が結ばれることがなくなってしまうと思っていましたが、離縁状はここにあるのです」
妙真はそう言いながら帯の間から、一通の書状を取り出して、小文吾へ差し出した。
受け取って、中身を見ようとして広げると、それは書状ではなく、どこかで落としたはずの犬塚信乃の人相書であった。
小文吾ははっと驚き当惑する。艱難辛苦はいよいよ増したと思うものの、できる限り顔色を変えまいと騒がずに努めた。人相書をそのまま巻いて、横に置いた。
「これは不思議な書きつけですね。離縁状は三行半と世間では相場は決まっていますが、普通の文言をこの人相書に変えたのは、房八の仕業か、それともあなたですか」
小文吾が責めると、妙真は相手の顔をじっと見つめた。
「とぼけなさいますな、犬田殿、これはあなた様が一番ご存じでしょう。古河の御所から至急の捜索手配が出ています。その犬塚信乃とやらを匿う者があれば、親族縁者も罰せられるという厳しいお触れが出ています。私の住む市川の里だけではなく、ここ行徳も同じでしょう。このことから、女房を離縁する房八を理不尽とは言えないでしょう。この離縁状を」
しかしそれは人相書である。
「離縁状を受け取って、お沼藺はもちろん、大八もここに泊めていただけるのであれば、送り届けた私も本意というものです。この書状をお受けにならないというのであれば、村長のところに参って、訴訟いたしましょう。それともあなたは、訴訟ごとをお好みですか」
「いえ、決してその様なことは好んでおりません」
「であれば、お沼藺を受け取って下さいますか」
「それはまた別の難題がありまして」
小文吾の歯切れが悪い。
「ならばその書状を持って、私は訴えるべきですか、どうなのです」
と激しく問い詰められて、困り果てた小文吾はうなづいて、
「義母上、その様にむやみに急かさないで下さい。離縁状、確かに受け取りました。沼藺はもちろん大八も今宵は私が預かりましょう。正式なご返答は、父が帰って来てから後にと、房八にお伝え下さい。さあ、夜は早くもこんなに更けてしまいました。お急ぎ下さい」
とやや打ち解けた言葉を聞き、妙真は袖で涙を流す眼を拭った。
「ようやくご納得いただきましたか。心にもない厳しいことを言ったのは、互いの身を守るため。私もあなたに恨みがある訳ではありませんが、浮世の現実というのは本当に苦しいものです。三年以上も前のこと、私は夫を亡くして、髪を切りました。容貌は髪を残したままの尼で、妙真という逆朱の戒名を夫の墓に刻み、仏の道に入りました。私は夫との間に房八という子供を設けて、今もなお年若き我が子夫婦の子守りに浮世を捨てられず、朝夕仏壇に向かってもお経を上げる暇もなく、日毎出入りする船の水夫たちの差配、積荷の水揚げの世話を執り、家族の面倒を見ていると、他人様は元の名の戸山と呼ぶのです。いえ、妙真とお呼び下さいとお願いをしても、皆様はまた忘れてしまい、戸山よ、妙真よと、法名と俗名を混ぜて、遂に戸山の妙真と呼んだりするのです、おかしな話ですね。この世で夫を迎え、妻となり、嫁と呼ばれ、遂に姑と言われる縁がありながら、夫に先立たれて最期まで遂げられなかったのは、産土神、結びの神のお定めなのでしょう。人の心は、善と悪もちょっと見ただけでは分からないものですから、この鬼婆が、兎毛ばかりも非の打ちどころもない嫁の沼藺を追い出したなどと人が言うかもしれません。これもまた意味のない繰り言でした」
【姑息の愛別、夜笛、憂いを惜しむ】姑息はこの場合、未練を残すとか葛藤を残すの意

大八を抱いて泣くおぬいちゃん。何故かJOJO立ちの妙真さん。
手配書を持ったままの小文吾のそばには、法螺貝が転がっています。
ん?尺八を吹いているはずの念玉さんが盗み聞ぎに来ています(笑)
妙真はようやく笑った。
「それでは私は失礼いたします。お沼藺、塞ぎ込んで、病み患い、親や兄上に苦労を掛けてはいけませんよ。夏の夜、ついつい寝過ごしてしまっても、大八の衣服はきめ細かく替えてあげなさい。寝冷えさせたり風邪を引かせたり、病気にさせないようにして下さいね」
と心を尽くした物言いに、沼藺は泣き腫らした眼を拭いながら、顔を上げて、
「長年のご厚恩を受けながら、何も恩返しができずに突然のお別れとなってしまいました。もう真夜中でございます。同じ村ではないのに、はるばる遠くまでお帰りいただくなど、とても心苦しくてなりません」
と言いながら、互いに流す涙を止められず、義母と嫁は別れを惜しんだ。折しも聞こえてくる尺八の音に、妙真は耳をそばだてて、
「あの笛の音は鶴の巣籠(すごもり)。焼野の雉(きぎす)、夜の鶴、およそ生きとし生けるもの、夫婦の別れ、親子の相愛、どれもおろそかにすることはできません。出会いがあれば別れもあり、歓びがあれば必ず辛いこともあるのです」
と沼藺を励まして、そして涙を拭いてから、小文吾に暇乞いをした。妙真は立つ鳥後を濁さずの例え通り、未練を立ち切ったのだ。
見送る兄の小文吾は言葉もなく、妹の沼藺はよよと泣く。
妙真は細かい細工の施してあった門の潜り戸を押し開けて、外に出た。
「駕籠屋さん、駕籠屋さん、来て下さい」
と呼ぶと、待っていた駕籠かきたちが急いで現れて、妙真を乗せるために駕籠を用意した。
「お乗り下さい」
催促をするが、見返ることもなく首を振った。
「二十二日の月があんなに早く出て、空の色が変わるまで夜が更けました。市川まではもう帰れません。前から用意していた今晩の宿は近くにあります。私について早く来て下さい」
と駕籠かきたちに納得させて、駕籠を運ばせることにした。明るくなりつつある東の町へ急ごうとするが、足取りが重い様に見えた。
険しい山道に分け入る様な思いのまま、胸に降る悲しみの雨に迷う。露に濡れた袖を合せて、一人うつむいた妙真は、思案しながら歩いて行った。
(続くかも……)