馬鹿琴の旅立ち

独り言を綴っています。主にお城や史跡がメイン。時にはお相手して下さい。

叡福寺に行ってきました

2026年5月9日叡福寺に行ってきました。

こんなトコです。

先ほど寄った壷井八幡宮から、20分弱歩いたところにあります。

マンホールは、和を以って尊しと為すです^^

飛出し坊やはまさかの聖徳太子さんでした。しかも赤いランドセルを背負っています(笑)

ここは磯長山叡福寺、聖徳太子御廟なのですよ、初めて訪れます。

境内はこんな感じです。

階段を上りましょう。

おや、あの聖徳廟の題字は……

昭和の妖怪こと元内閣総理大臣岸信介さんの揮毫でしたか。故安倍晋三元総理のお爺様でもあります。

1652年再建の宝塔です。

金堂にお参りします。こちらは1732年再建。

横に宝蔵があります。入場料は500円、叡福寺巻物が印象的でしたが撮影はNG( ;∀;)

1603年豊臣秀頼再建と伝わる聖霊殿。本当なら凄いですね。

三骨一廟と呼ばれています。

つまり聖徳太子、妻の膳大娘、そして太子の母の穴穂部間人皇女(用明天皇の后)の3人の墓が一緒にあるのです。

では中に入ってみます。

メインのお墓には他の参拝者がいるので、先に辺りを伺ってみます。

久邇宮邦彦王は、昭和帝の妃、香淳皇后のお父上ですから、今上天皇の曽祖父におわしますのです。

経蔵。奥へ進みます。

たくさんの経典を保管しているんですって。

中を覗くと太子象35歳像があるのでした。

さあ、三骨一廟に戻って来ました。

夫婦、姑、仲良く眠っておられるんでしょうね。

 

実は私には考えがあるのですが、書いてみます。

598年推古天皇6年、24歳の聖徳太子は献上された甲斐の国黒駒に騎乗して富士山を登り、この地を墓所とする様に決めます。

621年推古天皇29年、48歳の聖徳太子の母、穴穂部間人皇女が亡くなります。

622年推古天皇30年、斑鳩宮で倒れた聖徳太子の回復を祈りながらも、同病に掛かった膳大郎女が2月21日に死去し、その後を追うようにして翌22日、太子も死去します。

二人の間は睦まじく、死後は一緒に埋葬されようと太子が言ったそうです。

 

何の病気かは分かりませんが、母の死で精神に失調を来した太子は一番愛する妃、膳大娘をも失い、この先生きていくことを諦めて……自ら……とか。

 

或いは母の死で精神をおかしくした太子は、先に妻を手に掛けて、翌日自らを……

 

なんてことを妄想してしまいました。

3人合葬があまりにも異常に見え、また死に至る状況も更に尋常ではないと思ったからなのですが……信じるか信じないはあなたと私次第なのです。

碑文があるのですが、

サッパリ分かりません(´・ω・`)

東(左)に持国天、西(右)に増長天を置いた二天門、向に見えるは叡福寺南大門。

お三人の方の墓所が一体化しました^^

寺務所で御朱印をお願いしている間、近くにメダカさんがいましたよ(*´▽`*)

白藤がほんの僅かだけ咲いています。

聖徳廟を記した御朱印GETです。

叡福寺のちょうど反対側の小高い丘には、西方院というお寺がありました。

聖徳太子薨去後に出家した3人の尼さんが、叡福寺の塔頭として建立したんですって。

3人の尼はそれぞれ、蘇我馬子の娘、小野妹子の娘、物部守屋の娘と言いますから、三すくみ状態!!(笑)

西方院からは反対側に叡福寺が見えました。

西方院でもお参りして、そろそろ帰ることにします。

帰りのバス停から以前登った二上山が見えました。

左が雄岳、右が雌岳です。二上山登山記はこちら。

fools-talk-to-oneself.hatenablog.jp

上ノ太子駅まではバスでした。太子のってこバスというもので、車体前面に太子が隠れています(笑)

なお付近には、敏達、用明、推古、孝徳の天皇陵がありますのよ。小野妹子さんのお墓もあったり、二上山の上には大津皇子、源氏三代の墓もあるのでした。

 

今日は壷井八幡宮から叡福寺まで歩き回りましたので、疲れました。

でわ。